インドカレーはインドの家庭で食べられているのか
インドカレー屋が日本の都市には多い。調理人や経営者が必ずしもインド人とは限らない。ネパール人とかも多そうである。
日本で「インドカレー然」とされるカレーをインドの人は食べているんだろうか。たとえば「バターチキンカレー」なんてものはインドの家庭の食卓にやたら滅法あがるものではないのではないか。あれは「宮廷料理のようなもの」みたいな話を聞いた覚えがある(根拠不覚)。
インドの「味噌汁的ポジション料理」は「サンバル」だと聞いたことがある。サンバルはたいてい野菜やら豆やらが中心のしゃばっとした煮込みみたいなメニューである。そいつであれば「バターチキンカレー」よりも、毎日でも毎朝でも食べやすい気がする。
日本人の多くが抱くようなトロっとしたルーをライスにかけるイメージの「カレー」を毎食立て続けに胃に収めるのは確かにキツイが、カレーとは「スパイスを用いた炒め煮みたいなもの」だと広く定義すれば、毎食が「広義のカレー」でも、そのカレーのディティールや多彩さ・幅広さ次第では健やかに暮らしていけるだろう。だって、味噌汁みたいな軽くて補助的なポジションにありそうなメニューでも「広義のカレー」に当てはまる可能性があるのだから。
話が逸れたが、「○○料理ですよ」みたいな顔して他国の街に立っている飲食店があっても、そのお店で提供されている種類の料理を、○○に代入される国の大衆が年がら年中食べているとは限らない。むしろ特別な時にだけたしなまれる料理をその国の代表料理みたいに認識されているケースは多そうである。たとえば日本のSushiだって、毎日のように食べる料理というよりはどちらかといえば「ハレの日の贅沢」に近いと認識している日本人が多数派だと私は睨んでいる。
『かもめ食堂』平常のディティール
映画『かもめ食堂』の話がしたくてどういうわけかカレーの話をおっぱじめた私だ。『かもめ食堂』はフィンランドに開いた日本食のちいさなお店にまつわるお話なのだ。どこにカレー要素が? でも、外来のものもその違和感も、やがて平常に融けて調和する、新たな平常の一部となるという話を私はしたかったのだ……ってことにさせてください。
なんのことはない日常はそこらに転がっている。でも、近寄ってみると、いろんなことが絡みあい、関わり合って、いろんなことが起きている。
おおげさに騒ぎ立てれば、どんなことも事件にも悲運にもなる。平然として大きく構え、受け入れればそれは“平常”である。
ヘルシンキのずんぐりと太ったかもめを映しつつ、主人公・サチエのモノローグではじまる物語。独白の内容は、淡々とした口調で颯爽と愛猫や肉親の死を語り、主人公の生い立ち……人物像の一端を伝えるものだ。
小林聡美の演じるサチエの口調が平然としているから面白い。にやにやしながら、冒頭からすっかりこの映画を気に入ってしまった私の感性を明かしたい。なんでこんなに平穏なのにおかしみが高いのだろう。
観察をこちらに委ねてくれているからかもしれない。観る人の感情や視線を過剰に誘導しようとしたりしない。準備をして待つさりげなさがある。その態度は主人公のサチエそのもので、新メニューの考案などで動的に「かもめ食堂」の振興に貢献しようとする(が、やや空回る)片桐はいり演じるミドリの姿勢とは対照的だ。
豊穣と稀有の港
「(地図をたまたま)指差したこと」に運命を委ねてフィンランドに来たミドリはかもめ食堂を手伝いはじめるし、お店にはじわじわと色んな個性や事情を持った人がやってき始める。空港への荷物の不着トラブルの最中でかもめ食堂に行きついた、もたいまさこ演じるマサコもいつのまにかお店を手伝っている。サチエとミドリと合わせて、3人の邦人がかもめ食堂のキッチンに立つ画が成立する。
おおむね、サチエのほうからこうしようと他人に干渉して物語が展開するのではない。サチエと、彼女のお店である「かもめ食堂」が港のような機能を果たすことで、景色の中に出入りや変化や振興が生まれる。サチエは「待ち」のヒトである。
もちろん、サチエはただ待っているのでもない。おにぎりを筆頭に、うまい「日本メシ」を彼女はつくるし、現地の人のなじみのフードであろうシナモンロールだってつくる。コーヒーはもともとそれなりにうまいが、ある事情を隠した男の入れ知恵もあって、もっとうまいコーヒーを提供するようになる。「待ち」なりに日々を糧にして港の機能を豊かにし、価値を育て・養い、たくましくする努力を怠らない様子だ。
劇中でサチエが起こす行動の中で最も他人への一方的な突撃力を有してみえるものは序盤で、カフェに居合わせた初対面のミドリに対していきなり『ガッチャマンの歌』の歌い出しの続きを教えてもらえないか乞うところである。国外で出会う日本人同士にはそれだけで連帯感が生じるのだろうか。
日本の文化を愛好するヘルシンキの青年トンミ・ヒルトネンが「かもめ食堂」の「最初のお客さま」なのだが、彼にねだられた「ガッチャマンの歌」の全容をその場で彼に教えてやれなかったのがサチエは気持ち悪くて仕方がなかったようなのだ。街の本屋カフェでみつけた日本人らしい風貌のミドリに歌の知識を求めて突撃する経緯はそういうわけである。
港としての機能と価値を淡々と磨き、あとは現地の人々によって利用され、機能が果たされる・恩恵が還元されるのを平常な心と体で待ち、備え、応じること。これがサチエと「かもめ食堂」の基本姿勢であり、物語の地盤である。
サチエは合気道のすり足歩き(“膝行【しっこう】”というらしい)を日課にしている。家で淡々とそれをおこなっていると、泊まっているミドリが教えを乞いそれに加わりもする。時折プールのシーンが挿入され、サチエは顔をあげて穏やかな平泳ぎを繰り返す。お店のキッチンで料理の生産に勤しむ様子も然りで、サチエの人生の方針を象徴するシーンを描き、主題の「かもめ食堂」や主人公のサチエのキャラクターを表現している。オーブンでシナモンロールがふっくりと焼きあがるみたいに、平穏かつ豊かにヒトや場が醸成される。観る人がおかしみを拾い上げる奥ゆかしいコメディであり、日本食みたいな滋味あるヒューマンドラマである。
日本を舞台に日本食を提供するお店をはじめる設定だったら、もっと違った物語だったかもしれない(日本を舞台にフィンランド食を提供する店を始める物語……とか、アイディアを借りて場所や要素を反転させる輸入や輸出は面白いかもしれない)。「かもめ食堂」には、少なくとも日本人でありながらフィンランドに渡る動機を得た女性3人がひとところに会する不思議と稀有がある。奇抜な設定でもあるのだけれど、国内だったらたとえば神奈川県三崎港あたりの物語を見ているような気分もする。
港、あるいは海のそばはヒトやものが行き交い、流れ着き、いくらかの者がそこにブイを浮かべたり錨をおろすみたいに暮らす。奇抜で稀有なめぐりあわせを、素朴な質感と可憐な茶目っ気でお盆に載せる態度が『かもめ食堂』の素晴らしい魅力である。
映画『かもめ食堂』概要などについての補遺、補足・蛇足
製作:2005年。2006年に日本、次いでフィンランドで公開。監督:荻上直子。原作は群ようこの同名小説。音楽:近藤達郎(NHKの連ドラ『あまちゃん』の音楽に参加した人でもあるそう。参考:Wikipedia)。エンディングテーマは井上陽水『クレイジーラブ』(1980年のシングル、アルバム『EVERY NIGHT』に収録。作詞・作曲:井上陽水、編曲:鈴木茂)。
『ガッチャマンの歌』(子門真人、コロムビアゆりかご会)を味わう
『かもめ食堂』の大?フィーチャー
映画『かもめ食堂』(2006年公開、日本・フィンランド)劇中において、主人公のサチエが歌い出しの続きが分からなくて、いてもたってもいられずに初対面のミドリに話しかけて『ガッチャマンの歌』について訊くのが物語の序盤の展開だ。
『かもめ食堂』の物語において、『ガッチャマンの歌』の抜擢はたまたまといえばたまたまに見える。絶対この歌でなければいけない……というほどの必然はないのかもしれない。日本のカルチャーが好きなフィンランドの青年が、歌の詳細や全容を主人公のサチエに教えてほしがる。この物語のプロットにおいて、『ガッチャマンの歌』以外を代入しても成立する歌はいくらかあるかもしれない。
物語にフィーチャーしたのが『ガッチャマンの歌』である理由を考える。原作小説の作者:群ようこが実際に『科学忍者隊ガッチャマン』の放送期を体験しているということなのだろうか。映画『かもめ食堂』では、登場人物のミドリが「弟の存在」を挙げて『ガッチャマンの歌』に触れていたことを明かしている。これは、原作者の群ようこの実体験を反映しているのかな……と、その可能性に思いを馳せる。『科学忍者隊ガッチャマン』の放送期間は1972年-1974年で、群ようこの生年(1954)を考えると、「弟が観ていたから自分も知っている」くらいの年齢だったという察しは許容範囲内に思える。実際の当時の群ようこの家族構成は存じ上げないので、重ねて申し上げるが私の想像である。
『ガッチャマンの歌』が『かもめ食堂』に相応しい理由は、“地球はひとつ”という歌詞の存在が大きそうだ。日本から遠く離れたフィンランドでちいさな飲食店を興した主人公・サチエと、奇遇にもミドリ、マサコといった日本から来た人の出会いが重なる展開がごく当たり前に起こりうるのを、“地球はひとつ”のラインが肯定する。
“誰だ 誰だ 誰だ”と、“誰だ”を3度連ねるラインには、主人公のサチエ、ミドリ、マサコの3人が重なる。また、『かもめ食堂』が来客に恵まれるようになる以前の段階で、度々訝しげに外から店内をみつめるフィンランドの婦人3人組にも“誰だ 誰だ 誰だ”のラインが重なる。
単にインパクトがあって、物語にコミカルで親しみやすい雰囲気をもたらしているというのもある。これについては絶対『ガッチャマンの歌』である必然はないかもしれないが、作品の時代設定、フィンランド人の日本愛好の青年の存在、サチエやミドリやその弟の年齢層の設定、作品のプロットなどを総合的に考えると、『ガッチャマンの歌』こそが至上の抜擢なのかもしれない。なんなら『ガッチャマンの歌』の全容や詳細をフィンランド青年(トンミ・ヒルトネン)にねだられるシーンの続きを書くかたちで以降の物語が発想・執筆されたかもしれない、とまで杜撰な妄想を膨らませる私。『かもめ食堂』のすべて(大部分)は『ガッチャマンの歌』に起因しているのかもしれないのだ……妄想のし過ぎ?
真実はいかにしても、『かもめ食堂』において『ガッチャマンの歌』は強烈かつ必然の存在感を放っている。
『ガッチャマンの歌』発表の概要、作詞者・作曲者など
作詞:竜の子プロ文芸部、作曲:小林亜星。アニメ『科学忍者隊ガッチャマン』(1972-1974)のエンディングもしくはオープニングに全期に渡り用いられる。子門真人、コロムビアゆりかご会が歌った。
『ガッチャマンの歌』リスニング・メモ
あの『およげ!たいやきくん』の歌唱者・子門真人である。あちら(“たいやきくん”)ではたい焼きの餡のようなじっとりとした独特の粘度を歌唱で表現したが、こちらでは溌剌として、ほどばしる疾走感ある煌びやかで活動的なヒーロー像を表現している。
ドラムスのパカスカと手数多くグルーヴィで巧みな演奏をはじめ、オケの勇壮なさまが印象づける。ブラスがイントロや間奏のトップ・ノートで華を散らし、ストリングスが飛翔する軌跡を描き込み、デデンとティンパニーがインパクトする。
コロムビアゆりかご会の児童期の青々とした声がオクターブ上の声域で機敏にメインボーカルと編隊を成す。カッコ良いチーム・ヒーローだ。
小林亜星の変幻自在なメロディ
ボーカルメロディの音型も、疾走する曲調と相まって非常に機敏に変幻する。
“誰だ 誰だ 誰だ”と、強起の16分音符の同音連打を3度連ねる。これを何万人が覚え、口ずさんだことだろう。
“空のかなたに踊る影”では一転、アタマを8分休符にして8分音符を連ねる。直前の2小節との対比が巧い。
“白い翼の”では音価を4分音符に切り替えた。つくづく機敏でリズムの語彙に富んでいる。直前2小節では8分休符の弱起、こちらは4分休符の弱起。
次の2小節“ガッチャマン”を見て欲しい。8分、4分、と休符を段階的にとり、主題かつ決めのフレーズ“ガッチャマン”を云う前に2分休符のタメである。8分→4分→2分と、アタマの休符の音価を拡大し、後続のモチーフの爆発力を徐々に高めている。天才ですか?!
“命をかけて飛び出せば”では2拍目ウラから3拍目アタマにかけてタイ。勢いを移ろわせ、トリッキー。後続の2小節“科学忍法 火の鳥だ”も8分音符の同音連打を基調にした傾向は保つがアタマを8分休符にして揺さぶる。動きを読まれては敵をほんろうできないのだろう。
図中4段目のアタマでは“飛べ”と16分音符で「タタン!」と地面を蹴って踏み切るような新しい音型を登場させる。後続の2小節では“行け”となり同様の2小節のモチーフを音域を上げつつ反復。しかし、後半の音型“ガッチャマン”の上がり下がりに変化がある。彼の動きは敵が目を止めるのを許さない。
図中5段目。ここに来て4分音符を愚直に置いていく音型。児童の声と一体になり“地球はひとつ”と唱えるところである。ベースと歌メロディの和声音程に注目したい。“ちきゅ”で根音のE♭に対してボーカルメロディの音程がCになっている。シックスのなんとも悲哀ただよう、調和のなかに不安が居残るもどかしい響きなのである。平行調のE♭メージャーとCマイナーのトニックとの間でせめぎあう、人類の代表たるガッチャマンと児童諸君の様相だ。この2小節“地球はひとつ”は丁寧に忠実に反復する。映画『かもめ食堂』が諭してくれる、遠く離れた異国との調和や一体感を肯定する重要フレーズである。それはアニメ『科学忍者隊ガッチャマン』においても、最重要のメッセージであるのを想像する。
図中6段目。“おおガッチャマン”。音型のアタマの2分音符が感嘆詞の“おお”を担い、“ガッチャマン”が4分音符 & 8分音符とスタメンを動員。同様のリズム型を同様の3・4拍目の位置で“ガッチャマン”と音程違いで反復する。ここは和声に注目したい。A♭→B♭→Cと、長三和音の平行で地平を上げていく。Cマイナー調だったが、ピカルディー終止で明るい響きに変革してみせた。ガッチャマン、あなたがいれば、必ずやきっと未来に日が昇るのを思う。
『ガッチャマンの歌』鑑賞後記
小林亜星のメロディは分析したくなる。音価の采配、リズムづかい、音程の上下、和声との関係にも視線をやった展開のつくりが意匠に満ちている。それでいて愛嬌と独創性を最高水準で発揮するメロディラインは稀有である。
『ガッチャマンの歌』は詞先で作曲したのだろうか。ほかの小林亜星による作曲作品にもみられるけれど、ことばを躍動させ、命を授けるメロディなのだ。西武ライオンズ球団歌『地平を駈ける獅子を見た』や『にんげんっていいな』も並列して紐づけておこう。
私がメロ先で作曲すると、メロディの音型や上下その規則や秩序の反復などによって、一定の流れをつくろうとしてしまいがちになる。小林亜星『ガッチャマンの歌』にみるような、鮮やかに音価を使い分けた機敏で多彩なメロディは、先行する歌詞を尊重し、愛(め)で、褒めて伸ばすことで生み出せるのだろうか? 詞の提供を受けて私も試してみたいが、こうも魔法をかけて命を授けられるだろうか。小林亜星と同じようにできなくとも、良いところを見習い、背中にぬくもりをいただきたいところだ。
青沼詩郎
映画『かもめ食堂』(公開年:2006)
子門真人『ガッチャマンの歌』を収録した『ガッチャマン 50th Anniversary G-SONG Collection』(2022)
群ようこの小説『かもめ食堂』(初出:2006年、幻冬舎)。映画のための書き下ろし作品。
ご笑覧ください 拙演(YouTubeへのリンクShiro Aonuma @bandshijin『ガッチャマンの歌(アニメ『科学忍者隊ガッチャマン』主題歌)ギター弾き語り』)