ザ・ダーツ ケメ子の歌 リスニング・メモ
揺らぎのあるトーンのエレキ・ギタ-のイントロ。スキャット。せりふのオープニング。「個人情報に配慮し音声を加工しています」風の回転速度を上げて1オクターブ高くしたような加工の著しいオブリガードのボーカル。エンディングのため息のようなぼやき声。耳を引く音の仕掛けがたくさんしてあります。
メインボーカルの発声が綺麗。シュっとした印象です。音や声の仕掛けが多い中、ボーカルとベーシック(ギター・ドラムス・ベース)の演奏は私の思う正統です。遊んだアレンジとの対比が際立ちます。確かな演奏があるから遊べるとも思います。
歌の内容を聴く
キツいオチが記憶に残ります。主人公の恋心の周囲を中心に描いていく歌の内容ですが、最後のコーラスでケメ子目線に変わります。好意で紡いで来た歌が、最後で嫌悪へと転覆するのです。主人公の心変わりではなく、一曲の中で別の人格目線に変わるのが珍奇です(主人公→ケメ子)。
好意から嫌悪への落差。そして主題の名詞「ケメ子」の語感が記憶にカッチリとフックします。主要なパートの演奏、サウンドの正統な様相が主題のねじ曲がった本質を強調します。
好いた・惚れた、愛だ・恋だを描いたヒットソングの海は真っ赤っかであるのに対し、『ケメ子の歌』にライバルはあるのかという気にさせます。嫌悪をモチーフにした稀な曲が、青い海に浮かびます。
グループサウンズ熱のかたわらで 『ケメ子の歌』と出会ったきっかけ
ネット上で扱われるグループ・サウンズの周りをうろうろしていると、当時のその人気ぶりがうかがえます。YouTube上で扱われている数や網羅度。書き込みコメントの数。「いかに当時、大衆が親しんだ音楽だったか」がうかがえる、それらコメントの書き込み内容。
売れたからこそ、どんどん後に続いてグループ・サウンズ様のスタイルを持ったバンドや楽曲が売り出されたのでしょうし、それらが出せば出すほどに受け入れられたのかもしれません。売れる見込みのあるものならば会社(営利組織)は制作するし、どんどん売る。商売において当然のことです。
一方、当時を知り、その時代においてグループ・サウンズに夢中になった人であっても、これは知らなかったという曲が現在のYouTube上などにみられることもあるでしょう。
グループ・サウンズが出せば出すほどに売れた(かもしれない)スタイルだったとはいえ、それでも高い認知度を得るには至らなかった作品が、現在のネット上で多く露出しているように思えます。
私が『ケメ子の歌』を知ったのは、そんなネットの上をうろうろしているときでした。YouTubeのレコメンドに現れたのです。
『ケメ子の歌』が果たして、その時代においてどんな受け入れ方をされた(あるいは遠ざけられた)のか、後の世代に生まれた私の知見では不足します。
しかし、数多ある、ネット上などにみられるグループ・サウンズの海を眺めてみるに、『ケメ子の歌』は少し浮いたポジションにあるようです。
多くのグループ・サウンズ曲は、愛、恋、青春の美しさや悲哀などをモチーフにしています。『ケメ子の歌』とてその例外ではありません。やはり主人公の恋をモチーフにしています。
しかし、途中でストーリーテラーが交代し、主人公の恋の対象であるケメ子氏の目線になるのです。
それも、主人公を拒絶する趣旨を述べる内容。この様相は、熱狂と歓迎を受けたグループ・サウンズのヒット曲群一帯を見回してみましても、似たものを探すのは難しそうです。
もちろん、失恋のストーリーはモチーフとしてはありふれています。しかし、完膚なきまでに拒絶され、いっさいの救いもなく、ため息で終わる。これは稀です。
失恋したなら、その心情を、自然界や都市、社会の営みの風景などに投影する、オーバーラップさせるなどして、昇華するのが大衆歌の定型のひとつではないでしょうか。歌の物語の中において、リスナーが主人公と一緒になって多少なりとも自尊心を慰めたり、自己肯定を図ったりしうる表現を含めるのが、大衆歌としてのカッコのつけ方、そのテクニックの一つだと思います。
必ずしも歌詞(文章)で相当する内容を描く必要はありません。「ラララ」や「アアア」など、意味のない発声でも良いのです。楽器パートにそれを託してもかまいません。音楽上のハイライトがそこにあることによって、主人公やリスナーの失恋の悲哀などが昇華されるのです。
『ケメ子の歌』においては、それがないのです。……とまず書いた上で、可能性を探ります。ひとつには、歌詞“私はあなたがキライです”を述べたあとに、「ラララ…」と歌う部分があること。ですが、これはそれまでのコーラスでも繰り返されてきたモチーフであり、今更なんら衝撃をやわらげる機能を果たさないというのが私の感想です。
もうひとつには、エンディングの「ため息」が衝撃的な拒絶と嫌悪の緩衝に相当するのかもしれません。“ハァーァ…”(私にはそう聴こえました)という、ため息あるいはボヤキのような声にならない声、意味をなさない音声。たったこれだけで、オチをつけているというのが私の解釈のひとつです。
もちろん、ため息はおまけのようなもので、ケメ子氏による痛烈な最終コーラスにおける陳述こそがオチの本体でもあります。ですから、やはり厳密な解釈を追求するのならば、主人公もリスナーも何も救われないのが『ケメ子の歌』の実際ではないでしょうか。非情に突き放されて、物語はブツリと断線するのです。
「ハイ、話は終わり」というけんもほろろな感じ。一方的につきつける表現です。多くの場合、それを言われた方には、まだ釈明を求める意思(未練)が残留します。『ケメ子の歌』はまるで、そんな終わり方をするのです。
歌詞
曲の本質に迫る意図で、歌詞にもっと近づいて観察してみます。
イントロデュースのせりふから。
それは去年の秋でした ひとりの少年が町で会った女の子に恋をしました 少年は胸をときめかせながら そしてついに言ったのです 好きです
ザ・ダーツ『ケメ子の歌』(1968)より、作詞・作曲:馬場祥弘
ふたりの関係はどのようなものなのでしょう。「町で会った」がどの程度のつながりを含むのか不明です。もちろん、ヒトは一目惚れでも恋をします。
“ついに”とありますから、やはり時間の幅が含まれているのでしょうか。しかし、“ついに”も解釈の余地が大きい表現。その場で一目見て気に入ってしまったのち数秒~数分間程度口ごもっただけでも“ついに”と言えなくもありません。バス停や駅など、公共の空間である程度の時間、他人同士が居合わせるシチュエーションにも色々な可能性があります。
イントロのせりふだけではいろんな想像を許しすぎる。本体を見てみます。
きのうケメ子に会いました 星のきれいな夜でした ケメ子と別れたそのあとで 小さい声でいいました 好き 好き 僕はケメ子が好きなんだ
僕はケメ子が好きなのに ケメ子はなんにもわからない 僕の気持をお星さま ケメ子に伝えて下さいな 好き 好き 僕はケメ子が好きなんだ
僕はケメ子の夢を見た お手々つないでハイキング 大きなおむすび十個持ち ケメ子が八つに僕二つ 好き 好き だけどケメ子が好きなんだ
私の名前はミス・ケメ子 あなたはかがみをもってるの はきけをもよおすその顔で 私を好きになるなんて キライ キライ 私はあなたがキライです
ザ・ダーツ『ケメ子の歌』(1968)より、作詞・作曲:馬場祥弘
前半の3コーラスは、ケメ子側が主人公をいかに認知しているのかまったくわかりません。“会った”“別れた”は主人公の主観であって、ケメ子側が主人公と“会った”“別れた”認知でいるかは不明です。不明さが、かえって主人公の一方的な認知である可能性を私に強く訴える有様。
おかしなことになるのは3コーラス目、夢パートです。この部分は状況設定のヒントとしてまるで失格。しかしおかしみの強い部分でもあります。夢の中のケメ子は強欲なのでしょうか。不平等な握り飯(おむすび)の分け方がシュールです。
4コーラス目の唐突なケメ子による自己紹介。大衆歌の歌詞で「吐き気を催すその顔で」なる表現に出くわしたのは初めてです。思想や感情を抱くのは自由です。それを本人の責任において表現・発信するのも自由です。好意を寄せることがケメ子による許可制かのような高圧な態度。許可の判断基準が顔面の美醜なのだとしたら残酷です。
改めて歌詞を眺めると、3コーラス目と4コーラス目の切れ目がわかりません。3コーラス目ではじまったと思われる夢シーンはいつ終わったのか? 4コーラス目に引き継がれている可能性も否定できない連なり方だとも思えます。この解釈でいくと、3コーラス目で明らかに偏りのあるおむすびのシェアの仕方をする強欲なケメ子と、顔面の美醜で好意を寄せることの可否を決める高圧なケメ子が滑らかにつながるような感覚です。
この解釈をすると、結果としてただの夢オチになってしまうのが多少残念な気もします。夢オチが残念なのは私の解釈の問題であって、オチ自体の問題ではありません。夢オチ自体はイノセントです。
補足メモ
採譜・補作・編曲が浜口庫之助
『涙くんさよなら』『バラが咲いた』『みんな夢の中』『我愛你』など、私の多くのお気に入りの曲の作者でもある浜口庫之助が編曲を担ったと知り、『ケメ子の歌』(ザ・ダーツ)が私に深く訴える魅力には、何か深部に通底するものがありそうです。
ザ・ジャイアンツ版がある
歌のふしまわし、歌詞、アレンジのザ・ダーツ版との違いが著しいです。曲として別の人格を持つ、別の作品かと思えるほどです。
メインボーカルはダブリング(シンガロング)が基本。加工の効いた変声がメインボーカルを務める部分も多いです。変声のオブリガードといいますか、合いの手が茶化すように陽気。サクソフォンなどの用い方も陽気です。ザ・ジャイアンツ版の編曲は寺岡真三。リリースはダーツ版とほぼ同時期ですが、発売の日付は1週間ほどジャイアンツ版が早かった様子。
派生曲『私がケメ子よ』がある
激しく歪んだサウンドのギターがぎすぎす・ざりざりとした耳触り。洋楽ロックを意識したようなサウンドです。カズーのようなブワブワ感もあります。へんな独自のスキャットも曲の個性に貢献します。松平ケメ子の歌唱はパワフルでエッジがあります。リズム・アンド・ブルースへの憧憬やポリシーを感じるスタイル。リリースはダーツ・ジャイアンツらの発売のひと月ほど後。同1968年のことのようです。
そもそも「ケメ子」って何か
『私がケメ子よ』作詞者でもある、落語家の四代目・柳家小せんに「ケメ子」の由来があるようです。テレビタレントとしても活躍した氏が、妻のことを「ケメ子」(もちろん仮名)と表現したことが、世間で「ケメ子」という記号が通じるようになるきっかけとなっているようです。『ケメ子の歌』のような作品が生まれる元になったことを思うと、四代目・柳家小せん氏は妻(ケメ子)のことを、男性(柳家小せん氏自身、あるいはほか男性)を魅了する素敵な女性である面や、強欲で辛辣な面などを強調し、人格の振れ幅をたいそう面白おかしく話すなどして、幾度も出演の機会を重ねたのかなと想像します。
参考リンク
浅草下町よもやまばなし>ケメ子って誰? →容姿はそう麗しくはなく、性格も曲がったところがあるが憎めないキャラの女性をケメ子と呼んだ風潮、ケメ子は君子の訛りとする説などの紹介があります。
Flying Skynyrdのブログ>聴き比べ ダーツとジャイアンツ『ケメ子の歌』 →『ケメ子の歌』を含め、『帰って来たヨッパライ』『受験生ブルース』を挙げて、当時のコミカルソングのブームの文脈を匂わせます。映画『ケメ子の唄』についても触れています。流行っていたグループ・サウンズのカルチャーをパロディした向きもあった可能性についての指摘は、当時を知る人ならではの貴重なものだと思います。
Wikipediaをみるに、映画『ケメ子の唄』がモチーフにしているのはジャイアンツ版のほうのようです。歌詞の細部含め、いち音楽作品として私はザ・ダーツ版が好みです。
高田純二(平凡パンチ)がカバーしている(2009年)
歌詞の細部がダーツともジャイアンツとも異なります。前半はダーツ版を下地にしている向きもあります。
女性ボーカルのオブリガードが透き通ってセクシーです。高田純二のボーカルはケロった加工。サウンドの解像度が現代のそれです。ドラムスのゴーストノート、エレクトリック・ギターの伸びやかでクールなサスティンがカッコ良いです。
タワーレコード・オンライン>高田純次が〈平凡パンチ〉としてアーティスト活動開始! シングル&DVDをリリース
スキャットのネタ元はニール・セダカ『Next Door to an Angel』
甘く張り・艶のある声のハーモニーが無敵。はじけるように爽快で好印象です。手拍子も入りご機嫌なビート。後半(1:17頃〜)の展開にはっとします。Bメロっぽいところでピアノにギターがかぶってくるでしょうか。ハーモニーが混沌としてストロークのリズムがパワーを増します。
Neil Sedaka『Next Door to an Angel』は1962年発売のシングル曲。シングルを集めたコンピ『Neil Sedaka Sings His Greatest Hits』(1963年)、アルバム『Circulate』(オリジナル発売年:1961)の配信専用版であろうExpanded Editionなどに収録されており、聴くことができます。
青沼詩郎
ザ・ダーツのシングル『ケメ子の歌』(1968)
ザ・ジャイアンツのシングル『ケメ子の唄』(1968)
平凡パンチのシングル『ケメ子の歌』(2009)
Neil Sedakaのシングル集『Neil Sedaka Sings His Greatest Hits』(1963)
NEIL SEDAKAのアルバム『Circulate』(1961)※オリジナル版には『Next Door to an Angel』はありません。
ご笑覧ください 拙演