食わず嫌いのマイケル始め

TRICERATOPS和田唱さんのXアカウントのポストがある日私のスマホの画面に流れてきました。映画『Michael/マイケル』を観てきたことに絡めた「マイケル関連ポスト」を連ねる彼のアカウント。和田さんは関心の対象をとことん観察しご自身の感性やロジックと突き合わせて評価・評論する達人です。彼のX上のマイケル評だけを見ても、マイケル・ジャクソンがいかに変遷していったか、それらが世の中あるいはファンに与えた影響がいかに大きいものだったかが垣間見られます。というか、ひとえに和田さんが有する、熱いマイケル愛。市井のファンの一人としての人格が熱く伝わってきたのです。和田さんがビートルマニアであるのは存じていましたが、マイケルに対してもビートルズ愛に遜色ない解像度の解釈をお持ちであるのに私は唸ってしまいました。

かくいう私はマイケル・ジャクソンに疎いです。ビートルズが好きなので、ポールのソロとマイケルのコラボ作品なら多少興味を持って聴いたこともあったかな……という程度の関心の度合いでした。

近年ほど私が熱心に音楽を聴くようになる以前、20代くらいまでの頃の私は、どちらかというとマイケル・ジャクソンが苦手でした。美容整形を繰り返している世界的タレントさん……というあまりにもひどい解像度レベルのみで認知していたような有り様です。表面的には踊りやビジュアルに比重があるように思える点も、またその鋭くて明瞭な(鋭すぎて明瞭すぎる)マイケルの音楽にみられる独特の音像も私の食わず嫌いを助長しました。

食わず嫌い期のいつしかの私も、近年はすっかり、音楽に対して見境なしで雑食になった私に食われて久しいこの頃。このたびの映画『Michael/マイケル』公開のニュースに合わせて、私が聴く習慣のあるラジオ番組などでもマイケルの話題にふれることしばしば。マイケルとの出会い直しには良い機会だとうっすら意識し始めたところに、決め手となったのが冒頭の和田唱さんの一連のX投稿でした。『Michael/マイケル』、観に行こう。今までの粗雑すぎる自分の認知に「マイケル始め」のきっかけの1歩を与える意思が整ったのです。

映画『Michael/マイケル』は“マイケル始め”にはとても満足

かつては食わず嫌いだった私にとって、映画『Michael/マイケル』はマイケル音楽との出会い直しの導入として満足度の高いエンターテイメント映画でした。映画館の太くリッチな音響、そして順序や前後関係のある物語を通して、マイケルの生涯(の一部分)とその作品の魅力が伝わってきたからです。

マイケル関連作のはじまりはジャクソン5、モータウンでしょう。響き(演者の動作と直結する空間の響きや距離感の記録)があって、演奏の肉体性、生々しさが感じられるサウンドで、クラシックロックやオールディーズを聴くノリで感性にフィット出来るのが若き(若すぎる!)年ごろのマイケルら、ジャクソン5 / The Jackson 5 のサウンドだと思います。音像が鋭くて人工的すぎて食わず嫌いを起こすかつての私のような輩にでも、ジャクソン5のホットでアナログで肉体の躍動が込められた演奏・歌唱・音像は導入として好ましいところ。

ジャクソン5以降のマイケルの音楽がたどる質感の変遷は、ジャクソン5までと比べると、尖って、鋭くなって、ビートがより厳しく緻密な解像度になっていくように感じられますが、今回映画を観終わって実感したのは、ホットな演奏のノリ、リズム・メロディ・ハーモニーといった音楽の基本的諸要素は当然に満たしまくった上で、さらにビジュアルやビートやサウンドの鋭さを極限までブーストしていくのがジャクソン5以降のマイケルソロの音楽の特長だと感じたことです。相対的にビートやサウンド、奇抜なビジュアルや身体パフォーマンスがトガって感じられますが、音楽的にはあらゆる要素もあくまで平凡なエンターテイメント音楽一般(というものがある、ということに仮にさせてください)と比べたらスッピンでも最強レベルに備えていると興奮した頭で思いました。メロディアスだし、ハーモニックで歌唱の肉体性がずば抜けているのは当たり前で、そのうえでさらにビートやリズム、ビジュアルの尖鋭性が卓越していったのだとこの映画『Michael/マイケル』は私に示すのです。そうしたマイケル観の変革が私にとって今回の鑑賞の一番の収穫であり、私の烙印する「とても満足」の最たる理由です。

具体的に印象的だったことリスト

※【ここから先はネタバレを含みます。映画『Michael/マイケル』を未鑑賞の方はご承知の上でご覧ください。】

・母の言葉、母との間食

・父との確執

・役者の肉体性 声が高い 整形の前後?

・イマジナリーワールド?

・動物愛、(苦境にある)青少年への慈愛

・冒頭の頼りなさからのピークエンド、終わり方

以上について書いていきます。

母の言葉、母との間食

うら若きジャクソン5期のマイケルに母がかけた言葉が胸アツでした。「あなたの輝きは誰にも奪わせないで……あなた自身にでさえ!」といった感じのものです。ただ1度映画を見ただけのうろ覚えをたよりにしたもので、実際のせりふはまったく異なる旨、ご容赦ください。母との信頼関係、母からマイケルへの親愛(己の経験則や人生哲学に基づく信念が感じられる)が表現されたセリフ、母親のマイケルへの親身な態度のお芝居が好感でした。

母親との間食やデザートのシーンが複数回あったのも記憶に残ります。ときに食卓で。ときに、マイケルが好きなTV番組などの娯楽や映画のようなエンターテイメント芸術の類をモニターで鑑賞しながら、ソファに体を預けてマイケルと母親はアイスクリームやポップコーンをたしなみました。彼と彼女のお気に入りの過ごし方だったのでしょうか。

父との確執

父親役名:ジョセフ。演:コールマン・ドミンゴ)の演技も抜群でした。これから何かしらの物を言う、せりふを発する瞬間までの空気の重み。父・ジョセフが、幼きマイケル、青年・壮年期へ渡るマイケルの生涯にかける束縛、支配の呪いの吐息が、純真なまでの狡猾さが表現されていました。ベルトで幼いマイケルのオシリやら背部をシバくシーンを億すことなく描き、以降は構図の推移とともにドアの影に隠されながら暴力や支配が継続する……幼きマイケルの身体的な苦痛の演出には鑑賞者が痛々しくなりすぎない工夫と気遣いが感じられました。

役者の肉体性 声が高い 整形の前後?

幼い頃のマイケル(演:ジュリアーノ・ヴァルディ)青年期以降のマイケル(演:ジャファー・ジャクソン)に分けて、ふたりの役者さんが演じました。そのいずれにも、マイケルを憑依し、身体パフォーマンスを磨きぬく、銀幕の裏に遠く連なるであろう血のにじむような研鑽と努力が感じられました。その歌やダンスの演技は、この物語の主題が実在したスター:マイケル・ジャクソンであることを抜きにして素晴らしく卓越したものでした。

マイケルのハイトーンの歌唱やシャウトは彼の紋所:お印そのものですが、ステージ上ではないときの(普段の)しゃべり声の声色が高くて中性的なジャファーの演技も印象的でした。実際のマイケルもあんな風に、高い声でソフトにささやくようなしゃべり方が特徴だったのでしょうか。

また鼻の形を美容整形手術によって変革する様子も私の邪な期待に応えてくれたものか、ひとくだり描かれます。ジャクソン5時代の幼きマイケルは父・ジョセフにデカ鼻とののしられます。父親が息子に言う言葉か!(ブーメランでは?)愛も気遣いもない……と悲嘆したくなりますが、そうした父との関係とも不可分に膨らんでいくであろうコンプレックスもまた、マイケルの人格やポリシー、思想信条の形成にきわめて甚大な影響を与えたことでしょう。役者さんの鼻も手術前のシーンと手術後のシーンで変化したように見えました。ビフォーとアフターのどちらかを特殊メイクで盛ったり引いたりしたのか、あるいはビフォーもアフターもどちらも盛大にメイクアップによって表現・誇張されているようでしょうか。青年時代のマイケルは、年とともに容貌がどんどん尖鋭・変化していく様子が表現されていました。普段は音楽にしか目がない私には解像度が低いですが、そんな私にでさえ、メイクもまた誇るべき比類なきアートであり、マイケルにとってかけがえのない自己表現の手段なのだと知らしめます。

イマジナリーワールド?

マイケルはピーターパンの世界が好きだったようです。フレッド・アステアの身体パフォーマンスを参考にしている様子も描かれていました。マイケル独自の、おとぎやエンターテイメントの世界に寄せる絶対の信頼や敬愛、没入があったようです。

父の支配も及び得ない絶対の世界。イマジナリー・フレンドならぬ、イマジナリー・ワールド。マイケルが動物や少年少女に寄せる関心を芽吹かせたのも、ひょっとしたらピーターパンきっかけだったのでしょうか。ピーターパンには種々の動物が登場したのかどうか。ひとりきりで、自室で絵本など開き、視線や指先でページを愛撫するみたく没入し、浸るときのマイケルの恍惚とした穏やかな表情のお芝居はマイケルの精神の原風景を物語っていました。彼の生涯にわたるエンターテイメント表現を生み出す源泉だったと思えます。

動物愛、(苦境にある)青少年への慈愛

ピーターパン崇拝?と地続きの興味関心主義趣向かもしれませんが、キリン、チンパンジー、ラマと通常一般家庭が飼う種としてはいくぶん常軌を逸した生き物をマイケルは豪邸に迎え入れていきます。

病院だか施設みたいなところで療養中?の青少年を訪問したり、おもちゃ屋で大人買いする彼にサインを求める居合わせた客たちへのサービス旺盛な対応なども描かれます。あまりにも奇抜で尖鋭がすぎるスター像が独り歩きする他方、マイケル自身が誰よりもあれふれた誰でもない誰かであり、一般大衆:市井の人々あるいは特に虐げられがちな属性や境遇を持ちながらも懸命に生きる人たちと横並びの親類意識が強いというのも、マイケルの素性なのかもしれません。

冒頭の頼りなさからのピークエンド、終わり方

物語序盤。家庭の居間?で、父親を観客兼指導者として練習している(させられている)ジャクソン・ブラザーズの面々。その演奏や歌唱の動きの頼りないこと。父の支配的な指導への委縮を表現したのかもしれませんし、ジャクソンブラザーズとて最初期はまだ、世界のどこにでも誕生しうる、平凡な世界からの抜けがけを具体的な勝算のあてなく夢見る存在であったことの表現かもしれません。奇跡はこの時点ではまだ始まっていなかったのかもしれない。そこから血のにじむ支配や圧力と抱き合わせの血のにじむ努力が、ほんとうの奇跡の始まりになったのかと思うと、皮肉なものです。常軌を逸した支配や欲望こそが、博愛と共感の巨星を生んだのだとしたら……。

この冒頭付近の家での最初期の練習シーンの実演の垢抜けなくてしょぼい雰囲気と来たら、いっぱしの音楽家気取りの私にとっては俯いて静かに映画館を出ようかと真剣に検討するくらいに鋭さや躍動感に欠けるものでした。本作を観終わってみれば当然、意図的な演出だったと思います。

こうした平凡さを物語の幕明けに、やがてマイケルの歌もダンスも磨きがかかり、一線のミュージシャンやダンサーとの協力関係とともにピークを迎え、銀幕と箱(上映設備)が魅せる音と映像の純粋な享楽と興奮の頂に鑑賞者を至らしめて、一番高い温度・熱量のもと映画が終結します。

ソロで評価されてからもつきまとう父親の身勝手や重圧に服してか、ジャクソン兄弟との再共演に向かうリハーサル?の際のマイケルの熱傷事故、命の危険にさらされて頭頂部の頭髪をいくらか失っての療養など、マイケルの人生の起伏の「伏」の要素が描かれないこともないのですが、基本的にマイケルの挑戦やさらなるパフォーマンス、エンターテイメントの実現を望む挑戦とその成果たる踊り・歌・音楽(楽曲そのもの、サウンド)の具体は、一直線・一方向に良くなる・高まる・インフレーションして感じられるように設計・描写されます。

周知の事実、現実のマイケルは天寿とは言い難い年齢・死因(?)によって亡くなられますので、この映画はどう終わるのだろう、どこまで描かれるのだろうとの率直な興味も、鑑賞者の最果て見たさの意欲を持続させる副原料になっています。マイケルのパフォーマンスが一つの答え(完成形)を見出した……さながら彼が最高傑作の交響曲を後世に送り出したかのような一部始終を鑑賞者にスクリーンを通して証明し、画面にはエンドロールが流れ始めるのです。

その頃、私はひしひしと実感していました。マイケルの音楽は一見尖っていてビート偏重に感じられる向きがあると思っていたけど、そうじゃない。あくまですべての要素を、合格ラインどころじゃない高いレベルで満たした上で、さらにエッジやビートの要素で抜きん出ているのだろうと。ヒール・ザ・ワールド / Heal the Worldなど、やさしげで慈愛に満ちた曲想を持つ楽曲が終盤で扱われていたのも私のこうした実感に与しているかもしれません。マイケルの音楽性は、浅知恵の私が思うよりもずっと幅広く奥深いものであろうことを。

一見奇抜すぎる印象を浅知恵代表の私に与えるマイケルの水面下の深層はあくまで豊かで幅があり、表層の印象はマイケルの逡巡と問いがなす圧倒的物量のエンターテイメント芸術の氷山の一角でしかなかったと私は反省したのです。

YouTubeで公開されている特別映像、関連サイトリンクなど

キノフィルムズ>映画『Michael/マイケル』特別映像【ファーストルック編】へのリンク

監督のアントワーン・フークワ製作のグレアム・キングマイケル役のジャファー・ジャクソンが本作について語っています。マイケルに扮していない状態(スクリーンの外)のジャファーさんが素顔で登場しており、マイケル役に臨む想いを語っています。

キノフィルムズ>映画『Michael/マイケル』特別映像【監督編】

監督:アントワーン・フークワがマイケルから受けた影響を語ります。本作ではマイケルの人物造形すなわち彼の完璧を追求する妥協なき姿勢や繊細さ・神経質そうな一面、慈愛深さや博愛を思わせるふるまいや言動・所作の端々が能動性をもって描かれており、監督が動画中で発している“マイケルの偉業は内面抜きに語れない”との言葉の底にある信念が体現された作品だと腑に落ちる思いです。“本作がマイケルを理解する助けになればうれしい”とも話しており、マイケルの真実から遠く離れた風聞、メディアが吹聴するスキャンダルなどに歪められる浅いマイケル認知しか持たなかった私のような層にも伝えるべきことがあると確信していたのでしょう。監督の意図した通り(以上)の成果をもたらす作品になっていると思います。

映画『Michael/マイケル』Webサイトへのリンク

参考Wikipedia>Michael/マイケルアントワーン・フークア

アントワーン・フークアのWikipediaページをみると「アフリカ系」とひとこと書かれています。

映画『Michael/マイケル』劇中で、白人アーティストのものをもっぱら放送していたMTV(映像バージョンのラジオ、のようなコンセプトだとか)の差別的なならわしに抗議し、マイケル作品を放送するように仕向ける談判の様子が描かれます。非白人アーティストの作品を放送するための努力は尽くしたという意味なのか「頑張った(が、マイケル作品の放送は依然として難しいだろう)」とする重役?の人に、マイケルは「もっと頑張って」と詰め寄ります。たったそれだけで手のひらを返すかのように電話一本、「(その当時の有名アーティスト、MTVの花形をかたっぱしから挙げ連ねて)10分以内にマイケル作品を放送しなければこれらのアーティスト全てMTVから撤退する」との強行に出る重役さん(せりふの細部は違います)。このくだりの短絡的すぎる展開はさすがに極端に単純化した構図だとは思いますが、人種差別をこうむる数多の人たちにとってマイケルは意識改革をリードする特別な存在、という意味でもスターだったのでしょう。監督のフークアにとってもおそらくそうであるように。

私が訪れた上映館にいた等身大パネル。

後記 尖る必然

録音芸術として味わおうとする際のマイケル作品の鋭すぎる明瞭な音像がどうも苦手だったかつての私ですが、この映画を観て腑に落ちるのは、そうした鋭く明瞭で埋没しない輪郭がマイケルの表現には必要だったということです。必要に従ってそのベクトルへ進化していった……あるいは進化の真の意味に習えば、マイケルの表現の振れ幅のなかでも鋭さ明瞭さ先鋭性などの面で優るものが今に残り伝えられ続けている、と察せられるのです。

音楽自体がキレッキレな輪郭を有していないと、せっかくのダンスも緻密な解像度でシンクロすることができません。ばかでかい会場で何万の観客の全霊の歓声・奇声・絶叫を浴びながら、「オケが聴こえなくてダンスの拍がズレた!」などと言っている場合ではないのです。「もっと聴こえるように、そもそもの楽曲自体を鋭く、何物にも埋没しないように作る」方へ向かうのは当然と言えます。

録音芸術としてリリースする楽曲をステージ芸術としてもシームレスに接合・相乗を図る上で、ダンスはもちろん楽器類の生演奏にしても当然でしょうし、光や空気やステージ物理一切合切の演出の類だってそうでしょう。その瞬間がその楽曲のどのセクションの何小節目の何拍目の裏裏拍のゼロコンマ何何秒どちら寄りなのか、などという至極基本的な規律、最高解像度の瞬間的な現在性をチーム全体、ひいてはオーディエンスを含めた催事全体として共有するために、マイケルの表現は尖る、鋭くなる、輪郭が際立つ方へ向かい、無尽蔵に精密な等間隔(テンポ、タイム感、定規の目盛)が尊重される必然があるはずです。

その解像度で表現に望むのが至極自然・必然の日常と同化する境地に、キング・オブ・ポップの椅子が置かれているのが今の私には見える気がします。誰よりもミクロな縮尺に潜っていくことで、誰よりも高い星となった王の名が本作の主題です。

青沼詩郎

ジャクソン5時代から『BAD』に渡る、劇中歌をざっくり振り返れるサントラ『Michael: Songs From The Motion Picture』(2026)

『rockin’on 2026年7月号』。映画『Michael/マイケル』のレビュー、ディスク・レビュー、ヒストリーなどマイケルの大特集盛り合わせ。