何事も白紙から始まる、とも限らないが。

ろくに音楽を聴いてこなかった私。

曲をつくったり詞を書いたり、それを演奏したり歌ったりしたのを録音している。遅いか速いかぺースがどうかはわからないけれど、自分なりにやってきた。

そのくせ、ちっとも他人の音楽を聴いてこなかったなと思う。

これは今も昔も私はずっとそうなのだけれど、自分本位の音楽をやっているだけ。音楽が好きというよりも、自分がやる音楽が好きだったのかもしれない。

最近、私はよく他人の音楽を聴くようになっている。4歳くらいでピアノを始めたのを音楽との関わりのきっかけとして、もう30年経ってしまった。ここでようやく、「音楽好き」の自覚を私は得た。「自分のやる音楽だけ好き」を卒業したのかもしれない。いや、留年したり停学中なだけかもしれない。とりあえず、「自分のやる音楽」以外も聴くようになった。

このブログのおかげである。人に伝えようとして、はじめて音楽ときちんと向き合えるみたいだ。その音楽を聴いて、どんなところに対してどう感じたのか、なるべく具体的に伝える。その前提があると、ちゃんと音楽を聴ける。

情けない話でもある。「私」と「音楽」があれば、それだけで「聴く」が成立するはずなのに。未だに私はやっぱり、「音楽好き」になれていないのか。

もちろん、鑑賞の体験を伝えようという前提なしに私が音楽を聴くことがこれまでなかったわけではない。でも、そうした貴重な機会は、日常の煩わしさ、忙しなさの前で無抵抗に息を吹きかけられて、いとも簡単に吹き飛ばされてしまう。

とんでもない若い表現者を最近知った。崎山蒼志だった(私は先日こんな記事を書いた)。現役高校生で、卓越した演奏と創造性。彼の音楽を聴いているときの私は、能動的だったのか受動的だったのか。音楽に、私が手を伸ばした。音楽が、私をとらえて離さなかった。

崎山蒼志のアルバム『並む踊り』収録の『感丘(with 長谷川白紙)』で彼とコラボしているのが、その字のとおり長谷川白紙である。

この人もまた若く、とんでもなく稀有だった。興味深いインタビュー(履歴書形式?)がある。

ここに挙げられる数々の音楽の固有名詞たちをむさぼって、少なくとも私の朝の3時間は消えた。それでもガイダンスにも満たないだろう。長谷川白紙をハブ(港)にした音楽の旅で人生の時間を大きく費やすのはむつかしくなさそうだ。深く聴き込むための港がそこに開いている。私はそこを3時間で一度後にした。これは刹那の消費材ではない。音楽を聴くってどういうこうとか、自省を促された記事だった。悪い意味ではない。長谷川白紙は、素晴らしいガイダンスを私にくれた。音楽を、私は聴きたいように聴いてきたし、これからもそうすると思う。けれど、私のそのアティテュードこそが、音楽をそういうもの、つまり狭義なものの範疇に押し込めてしまっている可能性を自覚する。タイ語だと先入観を持って聴いていたそれは、実は関西弁かもしれないのだ。そのとき、音楽を聴いていたようで聴いていなかったのかもしれない。それに気付くところから、ほんとうに音楽を聴く体験がはじまるのかもしれない。もちろん、先入観がもたらす体験も「実際」であり「真実」のひとつだと思うけど。

そうやって、長谷川白紙をハブにぐるぐる音楽を再生する(「聴いた」といいたいが3時間では足りない気もする)3時間を過ごしたうえで、当の長谷川白紙の作で私が暫定、いちばん好きだったものが『肌色の川』だ。2016年にSoundCloudにアップしたものだという。

メロディがどう、歌詞がどう、和声がどう、リズムがどう…と細かく見たいが今日の訪問では深入りできなかった。でも、直感的にいいと思ったことが純粋に嬉びでもある。新しいが、ポップとして「もぐもぐ」して飲み込める。私のこれまで愛してきた音楽、そのグラウンドから長谷川白紙というハブを通して旅に出る、そのオープニングテーマとして最高なのはこのトラックだ。

若く素晴らしい表現者がいると、「うわ。おれ、もうこの世に必要ないじゃん(笑)」という気になる。「(笑)」の部分が重要で、実際、本当に心の底からそう思っているわけではない。私にしかできないことがあるかどうか知らないが、とりあえずこの世界で「私」は「私」しかいない。いや、それも視点をどこに乗せるか次第かもしれないけれど。音楽は、いろんな主人公のところに連れて行ってくれる。存在するような、触れられるもののような、そのどちらでもないような。最近、ようやく私はその存在をまともに認知しつつある。

青沼詩郎

長谷川白紙(Twitter)
https://twitter.com/hsgwhks