表現者と鑑賞者という対

昔はテレビをよく観た。実家に住んでいた。家族と一緒に観られるものも観たし、夜な夜なひとりで楽しむようなものもたくさん観た。たぶん、あの時期に一生分観たのだ。

何気なく見始めたテレビドラマ。それがおもしろくて、ハマってしまうことってあると思う。

主題歌がたいていあって、それはドラマ各回に渡って繰り返し放送される。視聴者にその音楽が刷り込まれる。

単純接触効果というものがあるらしい。(事象に「名前」がつくと、ああ、これは「そういうもの」なんだなと理解してしまう。それで本当に理解しているのかわからない。)

繰り返し接触するものに、ヒトは好意を持つ傾向がある。単純接触効果とは、そういう傾向についた名前のことだ。単に私がそう「理解」しているだけだから間違っているかもしれないけれど。

でも、実際私もそれを実感している。たとえば音楽だ。

小学生くらいのとき、じぶんの環境に向けて露出された音楽を好きになる。どうしてそれを好きになったかなんてわからない。能動的に選んだとも思わない。接触しているうちに、それが自分にとってなじみのあるものになる。「関係あるもの」になる。その接触が一回きりでかつ短かったら、その関係は結ばれなかったものだ。

最初の一回は短くとも、その後のきっかけにはなる。偶然、その対象と2回目の接触があったとき、「あのとき一瞬すれ違ったのと同一のものだ」という認知が生まれる。その接触が3回、4回と摘み上がる頃には、「関係」が結ばれる。一方的なものかもしれない。一方的なものは「関係」とは呼ばないかもしれないが…広義の「関係」は、他者であっても排除できない。

たとえばテレビで繰り返し流される、あるミュージシャンの楽曲がある。その曲とあなたの関わりはなんですか? と言われたとき、私は「テレビで何回も観た」とかいうかもしれない。私が、テレビという媒体を通して間接的にかもしれないけれど、そのミュージシャンないし表現者とうっすら関わりがある証拠である。その表現者の作品が露出する場所に、私がいた。そういう関係だ。

私はあえて、そのときの人気のピークにあるようなコンテンツを避けがちだ。これは、人ごみを嫌う心理と似ているかもしれない。人気のあるパンケーキ屋さんを、ちょうど話題の渦中にある時期に訪問したら、入店してパンケーキにありつくまでにだいぶ待たされるだろう。行列しているのだ。その時間も含めて楽しめればそれでいいのだけど、並ぶのは大抵ストレスだ。そうまでしてなぜ私が「今話題のパンケーキ」を食わねばならないのか? その必要もないし、興味もない。もっと昔からある素晴らしいものがいくらでも他にあって、私はそういうものに目を向けるための時間が惜しい。そう思って、つい「そのとき最たる人気の渦中にあるもの」を私は避けがち。

パンケーキ屋は例えだ。で、音楽でも私はこれをやりがちだ。たとえば、Official髭男dismを急いで聴く必要を私は感じないでいた。彼らへの、人々が寄せる関心のピークが薄れる未来が仮に来たとして、そのとき私が何かのきっかけでOfficial髭男dismを思い出した時、「あ、いま聴いてみたらいいかも」と思うかもしれない。これは、「人気だったパンケーキ屋、今なら並ばないで食えるかも」の心理である。

そう、この心理はチンケである。なんの意味もない。守る必要もない。「エゴとして守る」のを止めることもない。咎めもしない。だったら、壊してもいいじゃないか。

そう、私は今とても人気のあるバンド、Official髭男dismの楽曲ひとつ聴くのにもこれだけ長文になるほどにウダウダするのである。(いっそ音楽聴くのなんてやめちまえとも思う。でも、今のところやめないでいるし、やめる予定もない。)

Official髭男dismの『Pretender』は、てっきりテレビドラマの主題歌だと思っていた。実際は、映画の主題歌だった。いや、その映画はもともとテレビドラマ作品だから、広義のテレビドラマ主題歌といってもいいかもしれない。

連続ドラマの主題歌は、人々への影響が大きい。つまり、放送(配信)の都度プレイされるわけだから、単純接触効果が望める。一回聴いただけでは素通りしてしまう人でさえ、ドラマというコンテンツと抱き合わせにすることで、とっつかまえて聴かせることができる。だから、つまり、プロモーションになる。作品が良ければ、それで売れるだろう。「良い作品」は、ほっといても売れるわけじゃない。

かつて実家で一生分テレビを観てしまった私は、最近はまったくテレビドラマを観ていない。テレビが主流だった時代は去って、今は無料・有料の動画配信とテレビの両方で楽しめる作品も多いから、現代において「テレビドラマ」といっても、必ずしも人々がその作品をテレビで楽しむとは限らない。

ドラマがあると、主題歌の詞で描かれる情景がどういうものなのか、想像の手間が省けてしまう。詞(詩)から映像、情景を引き出す作業というのは、なかなかエネルギーのいるプロセスだ。ドラマという情景(映像)があらかじめ用意されていると、このエネルギーを省略できる。『Pretender』を悪くいう意図はまったくない。素晴らしいクオリティの最高のポップだと思う。それを享受する人々の、「わかりやすさ」を求めすぎる危うさにちょっと言い触れておきたかった。

「歌詞の理解に、(あまり多くの)文脈を要さない」というのは、売れるため(私が普段、あえて最も重視しない要素のひとつだ)に重要なのではないかと思う。文脈の理解(前提)を省いても享受できる楽しさ。それが、重視されすぎてはいないか。

テレビドラマの主題歌の場合は、ドラマが文脈になる。が、鑑賞者は、そのドラマの視聴者であるという時点で「その文脈の認知者」という資格を満たしている。つまり、「楽しくドラマを観た」だけで、(限定された筋で)楽曲を理解できる。

テレビドラマの主題歌をつくるとなった場合、そのドラマの内容を踏まえて曲をつくるパターンがあると思う。これが誠実な仕事のプロセスだと個人的に思う。しばしば、ただ無関係に作られた両者を抱き合わせるパターンもあるようである。それから、制作側が、すでに存在している楽曲の中から「これがこの作品にぴったりだ」と指名する場合もある。そもそも楽曲からインスピレーションを得てつくられた映像作品も多い。

歌詞は、そうした複合メディアから切り離しても聴き手にそれぞれのイマジネーションを起こすものが素晴らしい。ときに、「普遍性」がその一助になる。平易なことばで、いろんな人がそれぞれの体験を思い出したり、映像を浮かべることのできるもの。そういうものっていいよね、とする観点がひとつある。もちろん、必ずしも平易なことばがそれをもたらすとは限らない。

Official髭男dism『Pretender』は、歌詞の押韻に職人芸を感じる。おなじ音韻が何回も繰り返されることで、そこでも聴く人の身に単純接触効果を起こすだろう。“グッバイ”と、平易で響くことばを要となるところでポンと入れている。“いやいや”と、単語内だけでも押韻のあることばを用いてポップのボルテージをさらに高める。印象に残り、真似したくなるだろう。カラオケで人気になりそうだが、ボーカルの難易度は高そうだ。

『Pretender』の歌詞は、比較的抽象度の高い平易な表現を基本にしている。歌詞における視覚的な背景の描き込みは抑えられており、心象や人物に焦点がある。この曲が仮にほかの恋愛ドラマ作品の主題歌でも、マッチするものがいくらでもあるだろう。この抽象度、平易さ、普遍性がこの曲の強みでもある。この曲を主題歌とする『コンフィデンスマンJP -ロマンス編-』(あるいは同作品テレビシリーズ)の映像を思い起こしてリンクさせるもよし。映画もドラマも観ていないけれど、単体として楽曲を味わうもよし(私がそうだ)。歌詞の普遍性は、後者の鑑賞者にやさしい。

普遍だ平易だと連呼するが、中身がないスカスカのものだったらつまらない。『Pretender』には、作曲・作詞者の藤原聡のポップに対しての誠実で崇高な職人魂・愛を勝手ながら感じる。スカスカなのと、聴き手の姿を鏡のように映し出すポテンシャルを秘めたものは別だ。そういうクリアさ、透明性も評価したい。歌詞だけ切り取ってもこれだけエンターテイメントしているその背景が月9だ映画だとなれば、もうその影響力は甚大だ。私が言及するまでもない。

青沼詩郎

Official髭男dismオフィシャルホームページ
https://higedan.com/

ROMANCEロマンス編 – 映画『コンフィデンスマンJP』公式サイト
https://confidenceman-movie.com/romance/

コンフィデンスマンJP – フジテレビ
https://www.fujitv.co.jp/confidenceman_jp/