長澤知之をはじめて見たのは、数年前に恵比寿のリキッドルームでALのライブを観たときだった(私が折坂悠太を初めて見たのもそのとき)。それよりも前に、友人から長澤知之の名を聴いたり、音源をシェアしてもらったりしたこともあって、その存在は知っていた。
それからしばらくして、私は音楽のサブスクリプションサービスを利用するようになった。そこで流れてきた(トップが画面に自動で表示されるリコメンドのようなもの)が、長澤知之『ソウルセラー』だった(いや、自発的にスポット検索したんだったか。忘れたがどっちでもいい)。
これにすっかりやられてしまって、夜明け前の暗い部屋で安物の肘掛け椅子にかけたまんま、私はひとり涙を流した。
昨日のこのブログの記事で紹介した財津和夫も福岡の「昭和」に立った人だったけど、この長澤知之もまた同じフロアを踏んだ人だと知った。福岡が育むものって何かあるんだろうか。いや、出身地で差別する意図はないけど、育ちはある。その人に影響するもの、その人をつくるものが。長澤知之とバンド・ALをやっている小山田壮平もまた福岡出身の人である。彼のやっていたバンド・andymoriや個人としての小山田壮平はすでに私のフェイバリットだけど、そこに『ソウルセラー』(Mini Album『ソウルセラー』2019、表題曲)を聴いて、長澤知之という存在を確かに私は書きとめた。
歌詞を聴いてほしい。音楽を読んでほしい。ああもうどっちも、全部感じてほしい。
歌詞
https://www.uta-net.com/song/264912/
“優雅に小銭を鳴らして行こう”(『ソウルセラー』歌詞より。作詞・長澤知之) 私は、すぐに自分を卑下してしまう。素晴らしい音楽を聴いても、それと自分を対比させておのれの小ささに吐き気をもよおす。そんな気分になってしまうことがある。洋楽の、もうこの世にいなかったりする「レジェンド」くらい遠い存在だと純粋な感慨に浸っていられることもありはするけれど、ことこの国の今の時代を同じように(まったく違うように)生きている、それも年代の近いようなミュージシャンだったりすると、特に私は現在の自分と比べてしまいがちである。それで、音楽を、大好きなはずのそれに触れに行くのをためらってしまったりすることがある。本当は一番近くにおいて触れていたいようなもののはずなのに。長澤知之の『ソウルセラー』はまさにそれだったし、andymoriや小山田壮平の音楽も私にとってのその最たるものだった。
心を揺さぶられすぎてしまうからだ。ちょっと待ってくれよ、最高すぎるだろ。時間が停止してしまう。思考も止まる。何も手につかなくなってしまうのだ。うちひしがれて。
その予感がしている、そんな未来がもう目に見えるとき、その音楽を私は意図的に遠ざけてしまうことがある。
この自分を、否定するもんじゃない。長澤知之の『ソウルセラー』が、そう言ってくれているような気もする。“小銭”は卑しくて小さい「私」のことかもしれないからだ。鳴らして行くんだ、それも“優雅に”なんだ。勝手にそう思って、私は心をこの音楽に浸していく。曲の解釈はいろいろでいい。『ソウルセラー』を、私は勝手にそう感じた。「セラー」には、「蔵、倉庫」(ワインセラーとかいうじゃない)みたいな意味と「売る者」のダブルミーニングがあるのかもしれない。音楽を、歌を、貯蔵もするし、人に開陳もする。その周辺、辺縁一帯が魂(ソウル)なのだ。
最新の長澤知之の発表に『密なハコ』もある。
本人の公式サイトのブログもいい。世界がぐらついたここ数ヶ月の投稿を読みふけった。長澤知之は今を生きている。中を向いて、外を向いて、その場所で。自分もまたそうだと思うし、そうありたい。
青沼詩郎
長澤知之 Official Web Site – オフィスオーガスタ
https://www.office-augusta.com/nagasawa/