何かの「変」を受けて、「あっ」と反応します。「えぇっ?」かもしれません。「おぉ!」かもしれません。疑念? 喜び? 驚き? 嫌悪? 

率直な反応はあるはずなのですけれど、ネット上だと、それをそのまま表明するのをためらってしまいがちです。つい、「同じように感じたり、反応したりしようとしている人はいないか」と探してみて、その存在を確認してからじゃないと、自分の率直な反応そのものを見せるのが怖いのです。

人に会っていたら、「わからない」「それってどういうこと?」なんて反応から、対話や会話が深まったり進展したりすることもあるでしょう。でも、ネットにつながった端末の前では、「沈黙」ひとつ取っても、それが「どのような沈黙なのか」なんてことまではなかなか伝わりません。文字によるチャットや書き込みのイメージでいま話しているので、ビデオチャットなんかだと、もういくぶん伝わるものが大きいのかもしれませんが。

インターネットやらそこにあるSNSって、伝えあうものが端的なのです。発する人と、それを受ける人が、そのことをじゅうぶんに分かっていなけりゃならないと思うのです。そうでないと、誤解が起こります。いえ、すでに起こっているでしょう。

あるいは、いかようにも解釈されうることを承知で発するのみです。

あなたが「Aだ」といったものを、「なるほど、Bね」と受け取る人もあるのだと。

そのことを念頭において、足を踏み入れるべき場所こそが、ネットなのだと。

もちろん、リアルの世界もどこも一緒でしょうけれど。

違って当たり前なのですから、自分が外れているかもしれないなどと怖れることはありません。

誤解を想定しないで発する「伝達」は軽率ですが、解釈の幅がある物語や音楽は、豊かです。

小説を読むとか、音楽を聴くとか、そういうおこないを、人間はします。

どう解釈したっていいのです。その物語は、音楽は、読んでいる、聴いている人のものなのだから。

「作り手にとっての、解釈の正解」があっても、それはそれで構わないと思います。

でも、作品を公表したら、「ご本人の説く正解」でさえ、ひとつの解釈にすぎないと私は思います。

もちろん、ある解釈を知ることで、楽しめなかった作品が楽しめるようになることもあります。

ときにそういう解釈は、あなたにとっての作品の価値を高いものにしてくれます。

あなたの「沈黙」。その顔には、何が書いてあるか?

あなたが「笑顔」を見せたとして、その表情はどんなものか。

あなたが思っているのと、私が感じる印象はまるで違うかもしれない。

それでいいのです。

青沼詩郎