社会が止まっています。

個人の生活は、それでも、止まりません。

むしろ、強く浮かび上がって感じられるくらいです。

起きる。トイレ行く。顔をあらう。朝食をつくる。食べる。かたづける。あそぶ。お茶する。お昼をつくる。食べる。かたづける。昼寝する。あそぶ。夕食をつくる。食べる。かたづける。お風呂にはいる。歯を磨く。しっとり、あそぶ。ゆっくりと、眠りに向かって、眠る。

休める仕事を休みにしたり。そもそも連休だったりで、私は、子ども2人と妻と、毎日、そんな過ごし方を繰り返していました。

もちろん、仕事をすることもあるし、ほかの家事や雑事も済ませながら。

それでいて、好きなことも。

私は、楽器を弾いたり、歌ったりするのを長く続けています。それは、止まることなく、家でできる範囲のことを、このところも相変わらずずっとやっています。

「家でできる範囲のこと」がもともと私のその営みの中心なので、正直、社会が止まっても、あまり影響がありません。…はさすがに言い過ぎですけれど、私のその営みが根底から破綻するというようなことはないのです。そもそもが、「自分」がいちばん大きなテーマだからでしょう。社会の歯車のひとつとして機能していた自分は、確かに、社会が止まるのに合わせて、止まっているかもしれません。しかしそれとは別に、生活をやめない、止まることのない私がいます。

社会がまわりつづけている中だと、そこに組み込まれて、回っているうちに、どんどん日々を過ごしていってしまいます。

自分の毎日。その、構造を。仕組みを。枠を。骨格を変えるのは、大変なことです。特に、そうやって、社会という巨大な機構が回り続けている最中で、自分の身の周りの構造をつくり変えるのって、大変なことです。ところが、それが、今ならできる。社会が止まっているからです。

もちろん、すべてが止まっているわけじゃありません。火に追われるようにして、誰かが激しい舞踏を続けています、いまこの瞬間もどこかで。

誰かが誰かを、誉め称える。罵る。尊敬する。蔑む。いま、この瞬間もです。

だからなんだっていうのじゃありませんけれど、私も、これまで大事にしてきたことを、まじまじと見つめ、フォルムを認め、そのつくりを、改めたり、守ったり、磨いたりして、自分を新しくしていきたい。そうやって、このところを過ごしています。

その一環として、このブログをつくりました。

これからにそなえて、社会の歯車になるようなピースを、じぶんで作りたいと思ったからです。その歯車が機能する、機構そのものを自分で持ちたいと思ったからです。だから、既にある場じゃなくて、自立した場を持ちたいと思った。そういうわけです。

まだ、なんにも、「見ていただく」のに気の回ったサイトになっていません。やりながら、直していきます。見苦しくてすみません。その過程を一緒に楽しんでいただけたら、私は幸せなんだろうな。

「ここまでやれば、納得いく!」なんて機をうかがっていたら、たぶん私は一生なんにもできやしません。だから、恥ずかしくて、未熟ないきさつを、共有していきたいと思います。

こんな日記をみても、みなさんはおもしろくないかもしれません。

音楽とか、何かしらの作品、本とか漫画とか、それから食べたり飲んだりすること、そういうものをじぶんでつくることや楽しむことについて書いて、更新していく予定です。そんなサイトにしたいと思っています。ブレブレな編集方針で、失敗するのが目に見えているかもしれません。助言や入れ知恵、歓迎です。

それでも、やりたいと思ったんです。しかも、社会が止まっているこのタイミング。機会を得たとしか思えなくて。

お読みいただき、ありがとうございました。

青沼詩郎

「コロナ禍」を背景に生まれた、「日記」の体をしているメディア。そういう意味では、私(青沼詩郎)のはじめたこのブログサイト『∴bandshijin∵』も、「コロナ禍日記」的なもののひとつかもしれません。このリンク先の本『コロナ禍日記: 3月~6月 新たな家族を迎えるまで 』の著者の川崎昌平さんは私が大尊敬する人。何かを表現したり発信したりする者が参照すべきたくさんの優良書をハイペースで出してしまう、ホントに凄い人です。