先日このブログで『おどるポンポコリン』について書いた

植木等クレージーキャッツが歌唱・演奏した『スーダラ節』は、さくらももこの憧れの曲だったのかもしれない。彼女のエッセイ中で「いつかああいう歌を作りたい」、「その夢をすてずに作った曲」が『おどるポンポコリン』であるとされている場面があるそうだ(Wikipedia)。

確かに、ふたつの曲『おどるポンポコリン』と『スーダラ節』には、私に猛烈に共鳴を感じさせる要素がある。それはなんといってもサビだ。

B.B.クィーンズ『おどるポンポコリン』

“ピーヒャラ ピーヒャラ パッパパラパ”(『おどるポンポコリン』より、作詞:さくらももこ、サ作曲:織田哲郎)

植木等(クレージーキャッツ)『スーダラ節』

“スイスイスーダララッタ スラスラ スイスイスイ”(『スーダラ節』より、作詞:青島幸男、作曲:萩原哲晶)

このように、意味のない音声でサビのほとんどが紡がれる。なんということだろう。この国を中心にとてつもなく巨大なヒットとなった曲の心臓ともいえる大事な部分、サビのほとんどが意味のない音声だなんて…! このことは、私に大きな啓示をくれる。

ミュージシャンや作家たちは歌の言葉、すなわち歌詞にさまざまな意味やメッセージを込める場合もあるだろう。それはそれでもちろんいい。でも、音楽ってそれだけじゃない。たとえば歌詞がなくて「アー」とか「ウー」とか「オー」とかの発音だけで歌っているヴォーカル・ミュージックもある。それだって「歌」のひとつだ。

意味はないにせよ、響きが気持ちいい。というか、『スーダラ節』の「スー」「スイスイ」といった清音にだって私は意味を感じることができる。私の勝手な思考のたまものだけど。たとえば清音の「ス」は流れるような印象を私に与える。飄々とつつがなく波間、水飛沫のほとばしる流れを自然体で行くしたたかさのようなものを感じる。「スイスイ」ともなれば優雅ささえ漂う。水の抵抗に無駄な力をつかわず、必要なだけの筋肉の運動、からだの運びで、浮力を活かして世間を渡るようでもある。

『おどるポンポコリン』のほうはまた一変。“ピーヒャラ”に続いて“パッパパラパ”である。“ピーヒャラ”には笛を感じる。“パッパパラパ”はラッパ。あるいは、それやそれ以外の楽器による、フィジカルな「囃し立て」を思わせる。理由も何もわからないが、なぜだか「おめでたい」。というか「理由」など置いてけぼりにして良いことを私に思わせる。理由にとらわれない自由のほうへ私を誘い出してくれる。そんな、祝福の表明の歌が“ピーヒャラピーヒャラ パッパパラパ”なのだ。

こんなことを感じるのはあくまで私の勝手である。この曲を、その音の波を、空気の振動を味わっているときにそのようなことは決して考えない。「なんだか気持ちいい」程度に感じている。自分がこの歌をうたってもそうだ。なんだかわからんが楽しいな。この肉体の動き(発声や演奏)をしている自分は幸せだ。そんな気にさせてくれる。

しょーもない俺

「無責任男」というコピーは1960年代ごろの社会にどんな響きを持ったのだろうか。まだ高度経済成長期に入る前…? と思って検索したら1960年ごろはすでにその只中にあるようだ。国はものを生み技術をつちかい、向上していく雰囲気…だったはず? そんな中で、せっかくのボーナスを競馬でスっちゃうしすぐ女の子に鼻の下伸ばしちゃうようなテキトーふわふわ男を形容して「無責任男」なんていうコピーは果たしてどんな印象を与えたのだろう。「そこらにいるよね、そういう男」という感じだったのか? 競馬でスっても景気がよければそれほど深刻な事態でもなかった?

『スーダラ節』作詞の青島幸男のほかの有名作は『明日があるさ』だ。ほんとうは自分を律して、めさしたいところがある。そこへ近づけるようなおこないがなんなのか、わかっているつもり。それなのに、それをできない。そんな主体の、自分への諦観、それも含めた達観や無情感が『スーダラ節』『明日があるさ』には漂う。複数の曲にこれがあらわれると、私はいよいよ青島幸男の作風をそこに感じ始める。それは受け入れられ、いずれも大きなヒットになった。みんな「俺のなかにもいるよ、そんな俺がさ」とか思ったのかな。私もその1人。「しょーもな。」と自分に言う気持ちを、『明日があるさ』や『スーダラ節』は肯定してくれるように感じる。人間のおかしみをうたう、「川柳」の本質に非常によく似ている。私は川柳が好きだ。しばしば書いてはコソコソとネットにあげているので、よかったら見てください。…自己アピールに着地して終わるとは思わなかった。…テキトーだなぁ、私。

青沼詩郎

『スーダラ節』を収録したクレイジーキャッツの『50周年記念ベスト 日本一の無責任大作戦』

ご笑覧ください 拙演

青沼詩郎Facebookより

“ハナ肇とクレージーキャッツのシングル曲『スーダラ節』(1961)。イントロ、間奏、後奏など各コーラスの前後を埋める音楽のパターンがいちいち違うせいか聴き飽きない。表情が声に「見える」植木等の歌唱表現が豊か。青島幸男の書く「おれのしょーもなさ」を晒す歌詞に『明日があるさ』を思い出す。”