まえがき

ゆらゆら帝国を私が高校生のとき友達に教えてもらったのは私の人生を左右する因子のひとつだったかもしれません。その存在は、楽曲は、ずっと私の中に残り続けているからです。

季節は巡りますから、過ぎた季節が先にあるのか前にあるのかわかりません。

先とか前とかも何を基準にして先とか前なのか。

前かうしろかも振り返れば反転します。

未来にあるような過去のような。

夏はまた来るし、何回も来た。

これから来る夏も過去になるし、振り向けば過去の夏は自分の先にあることになる。

妄言を吐きたくさせるゆらゆら帝国の魅力を何度でも反芻します。

通りすぎただけの夏を聴く

作詞:坂本慎太郎、作曲:ゆらゆら帝国。ゆらゆら帝国のアルバム『ゆらゆら帝国のめまい』(2003)に収録。

BGVでハーモニーの厚みを確保。バンドのベーシックはシンプルなパターンを保ちます。

終始平熱な演奏が絶妙です。バンドのぽつねんとした演奏が際立つのは、スリルが高まるように音域を高めていくボーカル。BGVも「Uh」を基本としつつ、主題に含まれるフレーズ“通りすぎただけの……”と歌うところで「Ah」と開いた響きにパっと変えます。

Bメロで転々と調を長2度ずつ上げていってしまうコード進行もまたスリル。ソングライティングの骨格の意匠をそのままに、積極的に魅せるための平熱なバンドの演奏に意図を感じます。

図:ゆらゆら帝国『通りすぎただけの夏』Bメロのボーカルメロディとコードの採譜例。Ⅱm→Ⅴ→Ⅰの動きを長二度ずつ上げながら反復し、テープをつないだかのように元の調に戻ってしまう。ラジカルなのかトラディショナルなのか、極端さを包含した平熱ぶりにうなされそうです。

間奏のギターソロのメロディが均整があって美しい。ですがBメロに似た形のコード進行に乗って、テンションのかかったような歯痒い音程選びが垣間見えるところが絶妙におしゃれでもあります。

図:ゆらゆら帝国『通りすぎただけの夏』間奏のギターのメロディとコードの採譜例。コード(C#m→)F#→Bあたりのメロディは三和音を逸した音選びで絶妙に話が噛み合わないままにわかり合ったような趣。浮遊感漂います。

ギターソロのところでさえ、ギターは一本。ダブってコードギターを加える(あるいはリードギターのほうをダブる)などの工作はせず、一本のギターの線を保ちます。

もともとトレモロで揺らいだような音色で、終始、音数や音の厚みを抑えてバッキングしていたギターですので、間奏でソロになっても音の「薄さ」を悪目立ちさせることがないのです。もともとの熱量を、絞った音数の水準に合わせておけばよい。これはスリーピース編成のバンドにおける奇策にして正道な気もします。

録音作品としては、終始壮麗なBGV(コーラス)が和声の厚みを担保する意匠です。ライブだったら、ギターボーカル以外のメンバーが楽器を演奏しながらBGVを担当すれば2声は確保できるわけですが、終始長い音を歌い、声を伸ばし続けるので再現の難易度は非常に高そうです。ここに、バンドの一発録音に全振りするでもなく、録音作品としてのつくられたコラージュ感に全傾倒するでもない、ゆらゆら帝国なりのバランス感覚が映りこんでいます。バンドの熱量ある演奏に魅せられる人も、緻密で深淵な録音作家の側面に魅せられる人も数多いる理由でしょう。

語句の平熱

“小舟が風に吹かれて だんだん遠離る 長過ぎた夢がさめた 無言で夏が終わる 氷がグラスで溶けた 2,3回かきまぜる 夕暮れそろそろ僕は 消えるよさりげなく”

(『通りすぎただけの夏』より、作詞:坂本慎太郎)

氷が、夢や夏の象徴に思えます。熱い炎や陽を夏に喩えたり象徴のモチーフに用いるのは自然ですが、氷と夏が重なってみえるから絶妙です。氷が溶けて、夏も氷解していく。主人公の心の平らさがおそろしい。消えて、夏からいなくなるのは僕のほうなのです。夏はずっとそこにいて、我々のほうが、勝手に季節からいなくなっている。時間と人間の観念に再定義をくれる言葉が平らなのになぜこれほどに刺激的なのか。

がちゃがちゃと騒々しく掻き立てるのでなく、コロリカランとグラスの中で音を立てる氷。“2,3回”という数字に意味があるようなないような。空間の余白を思わせます。カフェなのか家なのか出先なのか。すべてを知った老師のような、なにも知らない青さのような2,3回が音楽の韻律のように私の胸を巡ります。

“浜辺でボールを投げて 回転させている 知らない彼女と彼は 理想の2人になる 動機もなく訪れて 動悸もなく消える ガラス箱のふた閉めた 無言で夏が終わる そこで出会えた人 そこで別れた人 通り過ぎただけの人 いろんな夏が終わる”

(『通りすぎただけの夏』より、作詞:坂本慎太郎)

ボールは投げられることで機能をまっとうします。「回転」の任を担うのは副次的な機能にも思えます。自分の頭上に投げ上げて、自分でキャッチするひとり遊びを私は想像しますが、彼と彼女と、ボールがそこにあるのかもしれません。2人に何かが起こったのか、どんな関係が結ばれたのかの情報はほとんど与えられず、ボールやガラス箱といった無機質なモチーフと観念と季節を示す言葉がぽつぽつとレコードのノイズの中に姿を現すようです。

この胸で起きている臨場感というよりは、離れたところから回顧している。平熱な印象がそれを思わせます。

自分に胸に起きたことも、離れると熱くなくなってしまう。他人のそれのように扱うこともたやすくなります。

今この瞬間に、氷をぐちゃぐちゃに激しくかき回してやりたくなる感情の渦に飲まれそうになる経験もあるかもしれません。その経験が、氷を、物静かに2,3回かき混ぜさせるのかもしれません。私の想像が過ぎるだけかもしれません。過ぎただけでしょう。

平らでも、熱自体はある。平に保つことで、最初からなかったかのように感じる手品にかかった気分にさせます。

青沼詩郎

参考Wikipedia>ゆらゆら帝国のめまい

参考歌詞サイト 歌ネット>通りすぎただけの夏

参考Wikipedia>ゆらゆら帝国

zelone recordsへのリンク

ミディ>ゆらゆら帝国へのリンク

『通りすぎただけの夏』を収録したゆらゆら帝国のアルバム『ゆらゆら帝国のめまい』(2003)

ご寛容ください 拙演(YouTubeへのリンクShiro Aonuma @bandshijin『通りすぎただけの夏(ゆらゆら帝国の曲)ピアノ弾き語り』)