この曲の、ここがいいんだよ!!
と、私が力説したとします。
けれど、みんなが同じ曲の同じところを同じように肯定して力説していたら、ちょっと、いえ、だいぶ気持ちが悪い。
むしろ「馬鹿!その曲のいいところはそこじゃねぇ。本当に評価するべきところはここだろう」「いや、その曲は好きじゃないけど同じアーティストならあの曲が好きだ」というようにいろんな人がいるのが自然です。
「ディグ」の深さを競って高め合って、おもしろくなったり喜び合ったりする場もあるでしょう。
反対に、浅瀬をぷかぷかと気まぐれに流れて、漂う気持ちよさもあるでしょう。
たとえば「海辺」ひとつとっても、そこで何をやるかや、何を目的にして来るかがさまざまです。釣りをしたり、泳いだり、パラソルを立ててごはんを食べたり、お酒を飲んだり、おしゃべりしたり、お茶したり、議論したり、いろんなことをする人が同じ場を共有している。
機能や目的が絞られて、きちんと分かれている故の快適さもあるでしょうけれど、その逆もあります。
何かに特化するほど、その形式や、形状や構造もそれにコミットしていくのですけれど、同時にそれ以外の可能性を排除していくことになります。
中央に踊り手とか歌い手がいて、それを夢中になって鑑賞している人もいれば、周囲を遠めにとりまいて、飲んだり食べたり寝転がったり、好き好きに過ごしている人がいる。野外でのフェスだったらそんな様相です。
ホールでのコンサートだったらこうはいきません。みんなの意識が、基本的にはステージへの一点集中です。会場内への飲食物の持ち込みはご遠慮いただき、おしゃべりもお控えください、です。
どちらがいいのという話ではなく、そうやって人々のくらしが変わるのに合わせて需要も変化し、ものごとの様式や形式が変わっていきます。過渡期において、新旧のスタイルが同時に存在していて、住み分けているみたいに見えるかもしれません。そのまま共存が長く続くかもしれないし、どれかが潰えて、どれかが生き残るのかもしれません。
この頃はどちらかといえば、目的や対象や機能を絞る、「フォーカス」の方針に向かって、多様なものが多様なままに、こまごまと生きていく方に向かいがちなのかもしれません。それをしないと、こまごまとした私のような者は生きていけないのです。
でも、だからこそ、でっかい海の上、海の中、波打ち際やその周りで、いろんな人が同時に思い思いに過ごしているみたいな心の中の風景を持ち続けていたいなと思います。
そして、海の下でうごめくマントルよ。
お読みいただき、ありがとうございました。
青沼詩郎