うちには子どもが2人います。1歳と4歳、いずれも男児です。手がかかるといえばそうです。彼らと過ごすことで、他のことは何もできないといえばそうかもしれません。それは、自分の命を注ぐことといえばそうです。自分のいのちをつかって、育児をする。

おおげさかもしれません。「子育ち」(子育て、でなく)なんて言葉をつかう人があらわれるくらいです。子どもは、親が気苦労してもしなくても勝手に育つ…それも確かにそうかもしれません。勝手に「ちいさい子どもがいたら、何もできない」気に、親がなっているだけ。そういう側面を戒めるのには、「子育ち」は、たしかに一定の効果をもたらす言葉かもしれません。

何かしていたいことがあるのに、子どもに関わることでそれをし続けられない、つまり、なんだかどちらも中途半端になってしまうと、不満ばかりが負の遺産になってしまう。でも、たとえば子どもと遊ぶぞと決めてかかると、その時間は満たされる。ほかにも、ひとりでやりたいことがたくさんあって、子どもと遊んでいる間それが滞るのだとしても、これといって不満が残ることはありません。

「するべきことをさぼってやろう」という「悪気」があると、なんだか、さぼったことによって確保した時間でやったことも、なんだか本心で楽しめないなんてことがあります。そわそわしてしまって。一方、さぼるのではなく、「これはこのための時間」として決めて捧げれば、なんだか心がまとまります。

よく、家でコーヒー豆の焙煎をします。手網という、ステンレスザルの蓋と本体に取手がついたような器具をつかって、その中に豆を入れてガスコンロで煎ります。こちらは、せっせと手を動かす必要があるのですが、オーブンでも豆を焼くことができます。こちらは、オーブン氏がはたらくので、キッチンの床に縮こまって体育座りしながら眺めていればいいのです。でも、見た目とか匂いとかをチェックしながら、随時、温度や時間に気を遣います。「これくらいだ」というアタリがつけられるようになったら、放っておいてほかのことをしてももちろんかまいません。熱を加える役は、オーブン氏ですから。でも、キッチンにただ体育座りしていられることなんてなかなかなくて貴重なものです。楽しい。すべて、そのときの私は、豆の焙煎のためだけに存在している。

その豆で淹れたコーヒーが、のちの自分やら家族の舌や鼻や胃袋を通してその時間を満たすのです。いのちをつかって、いのちを満たす。この例では規模が小さいけれど、社会のこと、自然界のこと、なんでもこのサイクルだなぁと思います。

お読みいただき、ありがとうございました。

青沼詩郎