うちには、トイレもキッチンも冷蔵庫も洗濯機もあります。家で、生活の最低限のことが一応できます。でも、そうしたものを自室に持たずに生活している人だって、いるのでしょう。

何気なく「自室」といいました。そう、もはや、「」という印象が薄いのです。

ほとんど日中は、外で仕事するか友人に会うかどこかへ出かけて行っていて、そのまま夜を明かすことさえあって、自室にはたまに寝に帰るくらい。だから、生活に最低限必要と思われてきた種々のものでさえ、なにもかもは置かなくても、大丈夫になった。そんな生活が、ありえるのです。それも、ひとつの、その架空の人物Xさんのライフスタイル

シェアハウスという語もたいそうよく聞くようになりました。いえ、もうすでに成熟しきった語かしら。「自室」だけ個人で占有して、トイレや風呂やキッチンなんかを共有スペースに置いたパターンも多そうです。生活に必須な「家」の機能の一部を、完全な外部ではなく、屋内で他者(住人)と共有する。コンビニを冷蔵庫がわりにつかうとか、洗濯は溜めてからたまにコインランドリーに行くとかいったように、完全に屋外の部外者による管理下にある機能を頼るとなれば、これは生活の一部を完全に外部化しています。

「家」という境界線の墨が、かなりグレーに近づいたなと思います。滲んだとも。

「ハウス」と「ホーム」は、また違うでしょうけれど。

「家」の概念の多くが、「個の自由」とぶつかったんでしょうか。それで、淘汰されてしまいつつある。全部とはもちろんいいません。部分的に。

かつてはそこらじゅうを子どもがうろうろしていて、子どもをしかる「カミナリおじさん」もいたし、いつも誰かの目が地域の子どもを見ていた。そういう時代があったようです。

核家族」なんてことばが生まれたり、「地域のつながりの薄弱化」みたいなことが指摘されるようにもなりました。それもやっぱり、いくぶん過去の話という感じです。

今はどうなったか。いろんなものを、外部化し、あるいは、完全に私有せず「共有のもの」とする風潮が生まれて。

いっぽうで、子どもが外をうろうろして、他の人に迷惑をかけるようなことがあると「誰の子だ」「親がしっかり見なさい」みたいに、「よそはよそ」にいそしむ態度が今日もどこかにある気もします。でも、そういう価値観も局所的なもので、子の育ちを分かち合う風土の空気を、肌で感じてもいます。

ほかの「家」の人でも、干渉する。それは、地域とか社会が、「個の家」の外にある「家」だったのかもしれなません。

「個の家」の境界があいまいになりました。「個々の家」を擁する、地域とか社会とかいう「家々を抱く、大括りの家」の境界もあいまいになったのでしょうか。

クラウドが家です、なんて。

あるいは、「家」といったら、個人の身体レベルにまで収縮したんだろうか。この私のの表面こそが、「我が家」の外壁であるのか。

お読みいただき、ありがとうございました。

青沼詩郎

高田渡『ごあいさつ』。 こんな風に歌いたい。