Oasisのことは気付いたら好きだった。いつからか思いだせない。高校生のときに好きだった記憶がある。
『Whatever』のシングル(EP? 1994年)を持っている。大好きな曲だ。
『QUE!』(2002年)というコンピレーションがある。これにもOasis『Whatever』が収録されている。これはテレビでつかわれた曲をあつめたコンピ。当時CMにつかわれていた The Clashの『I Fought the Law』(Sonny Curtisのカバー)がかっこよくていいなと思って、それをあたろうと思ったらそれが入っているコンピがみつかったからそれにしたのだ。なんのCMだったか忘れた。クルマのCMだったか。それ以外にもいろいろ気になる曲が入っていたからちょうどよかった。
『Whatever』。
イントロのアコギ。それからストリングスの存在が大きい。コード進行はカノン進行をおもわせる滑らかな下降がメロディや歌詞の良さを引き立てる。そう、カノン進行は思いを乗せる名脇役。
なりたいもの、なんにだってなれる。とまっすぐに刺さる。歌詞をメッセージととらえるのは聴き手の勝手。
その気になればブルースだって歌える…と直訳できそうな歌詞がある。
ブルースとは。現実の悲哀だと私はおもう。それを歌ったものだ。
現実の悲哀の何を、「歌」が解決するのだろう。そんなのしらねー。でもおれは歌うんだ。その歌に、その姿に、声に、音に。ビートに。魂に私は感動する。
作詞・作曲のノエル・ギャラガー。彼に、ブルースへの敬愛がないわけがない。ひょっとしたら、この歌詞に登場する「ブルース」は、「いま、まさに主体がうたっているもの」とはやや違うものをさしているのかもしれない。それだってうたえるんだぜと言っているのかもしれない。進歩できる、と。
でも同時に、実は「いま、まさに主体がうたっているもの」だってブルース足り得るのだと思う。あらゆるものは私にとってブルースだ。その姿に感動する。
オーケストラが壮大さを演出する。カラン、コロン、チャキチャキ、ドン……豊かな響きのアコースティック・ギター。和音のストロークで光輪を添えるピアノ。リアムのダミった声。歪んだサスティンが気持ち良いエレキギター。デシデシ・ドシャンと派手な鳴りのドラム。どんな質のものを含めても、この曲の始祖をたどるとそこにはブルースのこころがあると思う。たしかに、「いま、まさに主体がうたっているもの」の形式面をカテゴライズするとそれはブルースではないのかもしれない。そんなことはどうだっていい。美しい曲に涙が出ることがある。
“俺にとって、曲作りは朝飯前だ。ただ、自分の好きな音楽を聴いてればいいのさ。そして音楽の向こうにあるもの、音楽の中に何があるのかを聴くんだ。そうすれば自然に曲が浮かんでくるよ。俺は最初にギターを手にした時から、頭の中にあるものをギターに伝えて表現してきた。自分を解放すればいいんだよ、簡単だろ? ノエル・ギャラガー/オアシス”(『ロック・ミュージシャン名言集』52頁より引用。発行:バーン・コーポレーション、2008年、編集:クロスビート編集部)
なるほど、音楽を聴く。音楽の中にあるものを聴く。ギターを通してそれを伝える。それが曲になる。そんなところだろうか。私は音楽の細部に目をやりがち。コードがカノン進行っぽいだのなんだの言って喜んでいる場合ではない。形式や意匠のむこうにあるものを汲め。感じろ。霊媒になって、それを自分のギターで伝えればいい。
オアシスが伝えるものを、私は汲み、伝えられているだろうか。皮膜を透過する視線の鋭さをノエルのソングライティングに感じる。見習うべきは、表面でない。向こうを見て、それを伝える。私もこれをしたい。
青沼詩郎