Oasisのことは気付いたら好きだった。いつからか思いだせない。高校生のときに好きだった記憶がある。

『Whatever』のシングル(EP?)を持っている。大好きな曲だ。

『QUE!』(2002)というコンピレーションがある。これにもOasis『Whatever』が収録されている。これはテレビでつかわれた曲をあつめたコンピ。当時CMにつかわれていた The Clashの『I Fought the Law』(Sonny Curtisのカバー)がかっこよくていいなと思って、それをあたろうと思ったらそれが入っているコンピがみつかったからそれにしたのだ。なんのCMだったか忘れた。クルマのCMだったか。それ以外にもいろいろ気になる曲が入っていたからちょうどよかった。

『Whatever』。

イントロのアコギ。それからストリングスの存在が大きい。コード進行はカノン進行をおもわせる滑らかな下降がメロディや歌詞の良さを引き立てる。そう、カノン進行は思いを乗せる名脇役。

なりたいもの、なんにだってなれる。とまっすぐに刺さる。歌詞をメッセージととらえるのは聴き手の勝手。

その気になればブルースだって歌える…と直訳できそうな歌詞がある。

ブルースとは。現実の悲哀だと私はおもう。それを歌ったものだ。

現実の悲哀の何を、「歌」が解決するのだろう。そんなのしらねー。でもおれは歌うんだ。その歌に、その姿に、声に、音に。ビートに。魂に私は感動する。

作詞・作曲のノエル・ギャラガー。彼に、ブルースへの敬愛がないわけがない。ひょっとしたら、この歌詞に登場する「ブルース」は、「いま、まさに主体がうたっているもの」とはやや違うものをさしているのかもしれない。それだってうたえるんだぜと言っているのかもしれない。

でも同時に、実は、「いま、まさに主体がうたっているもの」だってブルース足り得るのだと思う。あらゆるものは私にとってブルースだ。その姿に感動する。

オーケストラが壮大さを演出する。コロンと豊かな質の響きのアコースティック・ギター。リアムのダミった声。歪んだ気持ちよいサスティンのエレキギター。どんな質のものを含めても、この曲の始祖をたどるとそこにはブルースのこころがあると思う。たしかに、「いま、まさに主体がうたっているもの」の形式的な面をカテゴライズするとそれはブルースではないのかもしれない。そんなことはどうだっていい。美しい曲に涙が出ることがある。

青沼詩郎