音博と配心

昨日は私の敬愛するバンド・くるり主催の『京都音楽博覧会2020』の配心だった。

配心」という言葉は私も気に入って用いてきた。あえて説明すれば「配信」に掛けて生み出した言葉だろう。考案者は岸田繁だろうか? だじゃれのようだけれど、ほっこりとしたあたたかみと遊び、同時に誠意・真剣さを感じる。くるりらしい造語だ。

京都音楽博覧会京都音博音博とも)は2007年から毎年京都の梅小路公園で開催してきたけれど、今年は感染症が流行した社会を映して…いや、映すというか、それを受けてのくるりのこたえが「配心」だったのだ。

2019年までの京都音博はいわゆるフェス型のおまつり。でも地域振興や協働を重んじた郷土のおまつりでもある。ラジオで「あがりが悪い」と告白する岸田繁のトークを私は聞いた(FM京都FRAG RADIO』。くるりは月曜レギュラー)。そのわりにやることが多く大変だとも。よっぽど「今年はやめようか」とも考えた、という主旨のことも同時に言っていた。それだけ、今の世は岸田繁を、くるりを、あらゆるミュージシャンたちを悩ませた。

それでも『京都音博2020』は開催された。はたしてどんなかたちで、どんな内容で? くるりの出した「配心」というこたえの内容がいかなるものか。私は強く関心を寄せた。

収録 視点移動と「特番」の手触り

「配心」は収録だった。あらかじめ録っておいた映像と音を、定刻から流すというものだった。ここに、今年7月11日(土)にライブ配信形式で開催された『LIVEWIRE くるり in 京都磔磔』と大きな違いがある。

とはいっても、映像の編集方針はあくまで演奏を純粋にそのまま届けることにあるとわかる。一発で録られた演奏の様子を多数のカメラでとらえた魅力的なスイッチング。ライブで、自分の好きな時に、気になったパートに任意で視線をやるような擬似的な体験、といってもいいかもしれない。それくらいライブを現場で観ているのと変わらない臨場感がある。音も良い。

ある程度のまとまりで、これからはじまる曲(あるいは今やった曲)の紹介になるプロローグ風の映像が挿入された。これが、ライブとは違って編集を経た出し物ならではだった。具体的に言おう。この音博(「配心」形式での演奏のおまつり)を準備するためにコンピュータに向かって、作業中の音楽について語ったり飲食店で仲間と語ったりしている岸田繁の映像が挿入された。それを観て私は、これからはじまる舞台についての前提を仕入れ、期待を高めた。テレビの「特別番組」のような見せ方でもある。

全体の構成について

大まかに分けて、2部。前半が岸田繁楽団ゲスト・シンガー。後半が、くるりだ。

1部 岸田繁楽団とゲスト・シンガー

ゲスト・シンガーたち

ゲスト・シンガーとして小山田壮平畳野彩加 (Homecomings)UCARY & THE VALENTINEが登場した。カバー曲と、ゲストの持ち曲などを演奏した。

小山田壮平

彼のことをもともと私は敬愛していた。彼の(解散した)バンドandymoriの曲『1984』とくるり『ブレーメン』を披露。『1984』の前には先に述べたような、岸田繁が曲を語るプロローグ風映像の挿入があって気分を盛り上げた。くるりのレパートリーを予想したが『ブレーメン』は意外だった。敬愛する二者の「楽団」を伴っての共演が嬉しかった。

UCARY & THE VALENTINE

彼女を私はもともと知らなかった。事前に音源をかいつまんで聴いてみたときは非常に洗練と先鋭を感じた。「洗練」「先鋭」は私にとってある種の「距離」でもあった。映像で本人の容姿や歌唱を見ると、その印象がだいぶ変わった。初めて映像で観る彼女はどこか無邪気そうでもあり、そのキャラクターに私は好感を抱いた。2曲という短い登場だったから、私の妄想も混じるが。彼女は岸田繁『ドンじゅらりん』、くるり『琥珀色の街、上海蟹の朝』を歌った。オリジナルの解釈を広げ、新しい文脈を拓いたと思う。

畳野彩加 (Homecomings)

最初のゲストシンガーとして登場した彼女の『ひこうき雲』が鮮やかだった。原曲は荒井由実の初期のもので、スタジオジブリのアニメ映画『風立ちぬ』(2013)でより広く知られた。緊張感ある実直で純朴なボーカルが魅力的だった。事前に聴いたHomecomingsの楽曲は私の好みで、ある種の「距離の近さ」を感じていた。UCARY & THE VALENTINEの音源から感じた印象とは対照的なものだった。

岸田繁楽団

誰でも入れて、どこでも・なんでも演奏する楽団をうたう。これがどのようなものなのかが、今回の音博における私の興味の的だった。ゲスト・シンガーの部で、カバーやゲスト本人の曲を弦と木管のアンサンブル、ドラムス(打楽器)による10人超の編成で聴かせた。

ゲストたちの登場パートをはさむかたちで、1部のオープニングとエンディングに岸田繁楽団オリジナル曲が演奏された。軽妙洒脱で、インストゥルメンタルだという点でも純粋な「音の楽しみ」だった。はじめはオリジナルをつくる予定はなかったが、「どうせやるなら好きな音楽を」といったことで作曲したとの「語り」の映像も挿入された。

このオリジナル2曲があって良かったと思う。ゲストとの既存曲と、このオープニング・エンディングの両方があったおかげで私は何か「救われた」ような、音楽による不思議な幸福を感じた。ガットギターや歌唱で楽団に参加しているときの岸田繁の表情が私の幸福を物語っていた。私は「好きな音楽」の体現をそこに見た。朗々とした岸田繁による『Santa Lucia』の歌唱は鮮烈だった。西洋音楽を愛する彼のソウルが高鳴っていた。「ベル・カント」を思わせる美声に、シンガー・岸田繁の宇宙を認めた。

家で、好きな飲み物をつくって。

2部 くるり

2部はくるりのライブだ。初期のレパートリーから新曲まで幅広く演奏した。『東京』『』『トレイン・ロック・フェスティバル』に心躍った。7月の『LIVEWIRE くるり in 京都磔磔』のセットリストにこれらはなかった。

私がくるりファンになったのは、2003年前後。当時私は高校生だった。くるりがアルバム『THE WORLD IS MINE』〜『アンテナ』をリリースした時期にあたる。最初期の彼らをリアルタイムでは追えていなかった私だけれど、そのイントロを聴いて「これが私のくるり体験の原点」と思わせる力はなんだろう。うまくいえないけれど、歌が彼らと一緒にずっと生きている証拠だと思う。

野崎泰弘とアコースティック・ピアノ

くるりの編成は7月の『LIVEWIRE くるり in 京都磔磔』と同じく岸田繁佐藤征史ファンファン野崎泰弘松本大樹BOBO。今回は特に野崎泰弘によるアコースティック・ピアノが素晴らしかった。特に『京都の大学生』での情感たっぷりなイントロは目立っていた。

7月のLIVEWIREで野崎泰弘が扱ったのは非アコースティック…電子のトーンだったと記憶している。ここで余計な話を挟ませてほしい。クラシック・ピアノのコンクールを描いたあるドキュメンタリーで、演奏者が本番で使用する楽器の選定に望むシーンを見たことがある。楽器を入念に試弾し、課題曲の性格や自らとの相性を鑑み、熟考し、悩み、慎重に決断を下す。スタインウェイか? ヤマハか、カワイか? あるいは…クラシック・ピアノのコンクールに私は明るくないし、ドキュメンタリーの記憶もおぼろげだ。ともかく、そのセレクションに「電子ピアノ」は存在しない。

何が言いたいかというと、それだけアコースティック・ピアノに宿る演奏者のソウルの量、技巧の光陰、感情や表現のディティールの解像度は甚大なのだ。電子ピアノのピアノを模したサウンドは、あくまでアコースティック・ピアノの「代替品」だというのが私の持論。

今回の音博の会場、拾得(京都)で野崎泰弘が演奏したのは縦型のアコースティック・ピアノ(クラシック・ピアノのコンクールでの楽器の選択肢には、電子ピアノと同様に縦型ピアノも含まれない。だから、先の余談は「余る」ばかりか不適切かもしれない。それでも、電子との差は依然として雲泥だと思う。もちろん近年の電子ピアノのトーンには認めるべき素晴らしい進歩があるが、ここでは論旨の邪魔になるのでそれは排除しておく)。縦型ピアノは、水平に弦を配置したグランド・ピアノよりも軽快な性格の音がする。鍵盤のタッチも軽い。岸田繁楽団の「どこでも・だれとでも・なんでも」のストリート精神にも呼応するだろう。野崎泰弘の指は流麗に鍵盤を転がり、縦に張られた弦がこんこんと響き、私の心を路上に連れ出して踊らせた。2部のくるりでの『さよならリグレット』も素晴らしかった。

ハンナマ(半生)の良さ ライブ、かつレコーディング

LIVEWIRE くるり in 京都磔磔』は一本道のライブ配信で、同時刻にメンバーらが京都・磔磔で演奏している様子そのままを多彩なカメラワークで届けた。対する今回の音博は収録形式。プロローグ風映像の挿入や、場面転換(舞台やセットチェンジ)にかかる「間の排除」があった。それ故、「ライブ感」においては『LIVEWIRE くるり in 京都磔磔』に分があった。一本道のライブでは、息切れも息継ぎも、すべてを観客と出演者が共有できる。楽器をメンバーが持ち替えたり、メンバーの出入りがあったりする間に交わされる「なんでもない間、声のかけあい」「MC」といったバイオリズムを、7月のLIVEWIREで私は堪能した。

一方、今回の音博には「一本道の並走」とは違う魅力がある。1部の「楽団」や2部の「くるり」それぞれの中でのセットチェンジ、また1部と2部の間の大掛かりな編成チェンジを「時間の一本道の並走」(ライブ)形式でおこなったら、間延びしてしまったかもしれない。1部と2部の間であった岸田繁の衣装チェンジほか、細かい「時間の変化(隔たり)を感じさせる要素」が私を楽しませもした。ゲストシンガーとの収録がどのような順序でおこなわれたのか、そのタイムスケジュールは不明だ。順番どおりに、ほとんどライブに近い緊密した時間内におこなったのか、もしくは収録であることを活かした適切な順序と間のある行程だったのか(おそらく後者なのではないかと思う)。

観客と出演者が同時に息を切らしたり息を継いだりできないぶん、観客は好きなときに好きなところをプレイバックして観ればいい。LIVEWIREのときも今回の音博も、1週間の見逃し配信期間があるから、それは今回のみの優位性ではない。ただ、出演者側が表現のために必要な息継ぎを適切なタイミングで適量とり、プロローグ風映像をはさむなど必要な「編集」を経て演出された今回は、より完璧な「パッケージ」に近いのではないかと思う。ライブよりも「レコーディング」寄りだ。

とはいえ、あくまでその手触りは一発で録音されたライブのそれである。会場内に観客はいないから「ライブ・レコーディング」とも違うかもしれない。しかし、私は時間芸術の緊迫を確かにここに感じている。「ライブ」と「レコーディング」の両方の性質を併せ持っている。「半生」とでもいっておこう。

構想の序曲か

くるりは4月に「解凍」を意味するタイトルのアルバム『thaw』を出した。「半生」とか「解凍」とか、なんだかキッチンの料理人みたいだ。冷蔵庫と調理台のはざまに立ってあれこれやっている。私は料理人・くるりの調理過程を含めた挙動を、次々に出てくる料理とともに楽しんでいる。それは個別の単品料理(曲)でもあるし、「LIVEWIRE」や「音博」といったコース料理(セット)でもある。

新作をほのめかす発信を、くるりや岸田繁はTwitter・公式サイト・ラジオ等でしばしばしている。岸田繁楽団の今後も気になる。今回の音博は、これまでに彼らが持っていた構想の序曲に思う。「完全な生」を制約されたことをきっかけに「半生」の長所を確かめることが出来た。岸田繁楽団と「半生」の相性は良さそうである。選択肢が広がって、より自由になる今後を期待している。

終演後にはYouTubeのライブ配信で『京都音博2020打ち上げ【くるりのツドイ】』が開催された。そこで岸田繁は野崎泰弘への賛辞を送っていた。くるりメンバーの岸田繁佐藤征史ファンファン、進行役の今井雄紀(「ツドイ」編集者)の4人が画面に登場し、音博の振り返りと雑談ほかが交わされた。私を含む数千人のファンが視聴し、チャット欄のコメントもめまぐるしく更新されて動いた。こちらの「ツドイ」は実際にオンタイムで、時間を共有する楽しみの補完になった。

青沼詩郎

くるりMV集『QMV』。9月23日発売
4月に配信、5月にCD発売したくるりのコンセプト・アルバム『thaw』

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